「心を与えて あなたの手作りでいい」

 

流星群
流星群
posted with amazlet on 07.06.11
鬼束ちひろ 羽毛田丈史
東芝EMI (2002/02/06)
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 さて。
 BigBang氏のエントリがようやく上げられたが、大事な事は書かれていない。
 というより固有名詞が松永氏以外ほぼ皆無というところから「深読み」される
 のもやむをえない書き方をしているとしか思えないのだが、どうやらこれでも
 深読み対策で書いたとの事。ではここに現されている事を読み解いてゆこう。

 
 まず

その成果がどういう評価を受けるかはわからないが、人が
力を尽くして提出したものに対しては、批判することも
含めて我々には正面から受け止めるべき理由があろう。
(改行引用者)

うんざりはしているが、絶望はしていない - AnotherB

 この部分だが、さして真実味があるようには思えない。というのはその前に
 なされた話し合いについてきちんとした評価がなされたとは思えないからだ。
 

 次に

そもそも「ことのはを巡る問題」と呼ばれたものは、誰かの
ために急速に終息させなければならないという立場には、
僕は立っていない。(中略)で、もしもこれについて、続けて
考えていこうとする心の動きが、誰か1人のところにあるので
あれば、それは続いていく。それは誰にも止められない。
(改行引用者)

同上

 この部分は明確に異を唱え記録してゆかねばならない。これは言語道断だ。
 まず前半は単なる呟き以外の何でもない。「立場には立たない」という宣言
 そのものは結構な事だが、では逆にどのような立場にいるのかとかあるいは
 「何故」その立場に立とうとしていないのか説明するのでなければただ単に
 他人から眼を逸らしているだけだ。何の説明でもなく単に自分の心ばかりを
 無傷に済まそうとしている。そしてその同じ事が後半部分にも言える。事を
 続けて行こうとする人がいれば事は続くと言っているが、それは単に追認か
 服従であって、要するに事を終わらせる意志も規準も持っていないという事
 でしかない。さらにそのロジックも奇妙だ。何故「誰にも止められない」のか。
 まさかナウシカの蟲だなんていう性質の悪い駄洒落でもないだろうに、この
 無力感の理由は何なのだろう。何にせよ、特に同意する理由も必要もない。


 
 そして

仮に、終息のありかたのようなものが、誰かの心にあったとして、それはその
とおりに進むわけもない。自己が何らかの信念を持つことは結構だが、多くの
場合ことはそのとおりには進まない。あなたと私は違う人間なのであるし、その
議論=つまりことをどこかの定点にたどりつかせようという試みはそろそろ不毛な
領域にさしかかっている。終わりを急ぐ人たちは、なぜ急ぐのか。否、終わらせ
ようという不自然な試みが、一層ことを無用に再燃させるのではないか。

同上

 ここに至っては全く馬鹿げている。事の終わりを思い描くやり方なら一種類
 ではない。期待と予測とに落差があるのは至極当然であり、だからそれを
 埋める能力と努力が要るだけだ。事が期待通りにならないから無意味だと
 いうのは馬鹿げているし、予想通りにならないからというのも同じ事である。
 つまりこれは「違う人間である」という事を単なる口実にしているだけの事
 でしかない。無力感の口実にしている。だが何をする場合でもそんな事は
 当然の前提なのだから、誰しも何かをする時には他の視点を見据えておく
 ものではないのだろうか。ともあれ、これではBigBang氏にそれを見据えた
 跡を認める事は出来ないだろう。さて、では不毛なのは果たして誰なのか。
 
 
 そして「終わりを急ぐ」人などどこにいるのだろうか。僕には全然解らない。
 そもそもまともに終わりに言及した人は数える程だろう。アイス氏とeshek
 氏そして僕以外に誰かいただろうか。無論個人的な撤退宣言は別にして。
 その内アイス氏は単発のコメント以外に現れていないしeshek氏も四月の
 頭から現れていない。残るは僕だが僕が事の終わりに言及してきたのは
 随分前からだ。何となればここですでに言及している。最近のシリーズの
 エントリにしても三月五日六月四日の間に八回に分けて書いたものだ。
 軽く三ヶ月時間をかけている。つまりは四季の一つをそれに費やしたのだ。
 これを「急いでいる」と言えるのだろうか。それは事実にそぐうものだろうか。

 
 さらに「再燃」と言う表現も果たして適切なものだろうか。それはひとまずの
 鎮火を前提にしている。だが事実そうではなかったからこそ終わらせるべき
 だったのだから要するに火の不始末でしかない。それを再燃とは言えまい。
 大体にして「始め方」さえ今更のように今頃決まったようなどうしようもない
 ペースだったというのであれば、それをなお継続する事の馬鹿馬鹿しさにも
 眼を向けるべきだ。特に「誰かが続けたいなら」と言った自己のなさのままに
 それに介入してきたならなおさらだ。どうして自分の行動理由を喋らないのか。
 何故他人を納得させる具体性と説得力とを得ようとするのでもなく、最低限
 正直に自分の心を他人に与えようとする事もしないのだろう。そこが問題だ。


それはあなたたちが己の血のみ流れる事を恐れる卑怯者だからです

大暮維人「天上天下」10巻

 結局のところ、こういった台詞を投げられなければならないのだろうか。そう
 されなければこれまで何をしたかったのか喋る事もしないというのだろうか。
 何故他人を納得させる必要を感じないのだろう。身勝手ではないのだろうか。
 どこかの誰かの気紛れな風向き次第でどうにかされてしまう危うい燻ぶりに
 誰かを晒したまま何故自分には関係ないかのような態度を取れるのだろう。

同日追記

 誤記修正。

DIOの吸血鬼(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その⑧)

 さて。
 一週間が過ぎたという言い方は実際不適切である。何故なら一週間前に書いた事を
 その前に書かなかった訳ではないからである。括弧付きの「常識人」の権限神授説に
 ついてはすでにここに書いた事のバリエーションである。ネット上で問題を扱うべきか
 どうかの問いかけもすでにこの辺で行っている。あるいは、プロフェッショナルというか
 専門家についてはこの辺これがそうなるだろう。細かく見ればまだ色々あるだろうが
 原則的に言っている事がそう変わっている訳ではない。少なくとも書いてきた側からは
 ここに変化の痕跡を見出す事が出来ない。だがその意味は全く同じという訳ではない。
 そこには持続があるからであり、その持続を支持した心血が確かにあったからである。
 そしてその心血を注ぐ理由と注ぐべき事情に変わりがない以上、同じ事が続けられる。

Now since the real test for any choice is having to make
the same choice again knowing full well what it might cost.
(私訳:選択の本当の試練はその代償が何になるか知りながら
     なおその同じ選択をしなければならなくなる、ということ)
マトリックス レボリューションズより、オラク

 そこで考えなければならないのはその選択を続ける事情が果たして変わっていないか
 どうかだ。逆に言うとその選択がなお必要なのかどうかだ。もう少し言うと前の選択の
 効果だ。それを代償と比較する。それを勘案してなお選ぶかどうかを再び決める訳だ。

 
 だから最も注意すべきなのはその効果がゼロなのかどうかという点になってくるだろう。
 殊に選択の相手がほぼ変わりないような場合はそうである。何故ならそうした場合は
 心血を浪費させる事が無意識の目的とされている懸念が出てくるからである。それは
 無論その相手自身心血を浪費させるという変わりない選択を続けえているという事に
 なる。酷いものになると全くその態度は吸血鬼じみてくる。「DIOから血を貰ったろ?」
 とでも聞いてやりたくなるところである。そして、そこに気がつく事なら事情の変化にも
 数えうるだろう。何故ならそうした気質が変更可能であれ不能であれ、その気質への
 自覚が出来れば、同じ選択の繰り返しも必要ではなくなるからだ。端的に言えばその
 自覚が心血を要した事情を塗り変えうるのだ。その根本的な成長が心血に報いるのだ。
 

 さて。
 一年前のエントリを再掲しよう。その意味と必要性がなお深まってきているからだ。

 ネットでは問題が拡散してしまうという事は、当然に予測すべき
事であろう。そして拡散させたものと収拾するものとが同じ人とは
限らないのも当然である。それはその「物語」の正当性ではなく、
手段の正当性を大きく損なう事になる。 
ブログジャーナリズムについて - 売文日誌
(20070604の再引用に当たって改行を変更)

 これら至極当然の事からして、ネット上で何らかの問題解消を試みている
限り、そこに第三者の介入があったとしてもそれを責めるべき理由はまるで
ないと言う事になる。そもそもネット上ですべきじゃあないからだ。この事は
単純に「伝言ゲーム」という単語を知っていれば当然に推測出来る事である。
つまり第三者介入に文句付ける前に問題の拡散を座視した事の方を責める
べきであって、それは重要な問題に人を巻き込まないという当然の事である。
特に、介入してきた第三者が素人だと言うのであれば、そもそも素人程度に
介入「しうる」ようにしてしまった事こそ問題にすべきだ。優位にある方こそが
劣位にあるものを守れなければならない。巻き込むなどもっての他のはずだ。

ブログ/ジャーナリズムについて - 売文日誌

答えは3(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その⑦)

「その主張を行わない理由」は十分にある。それは「被害者の心情を
理解すれば」、そしてさらに、死刑回避論を唱える弁護団の戦略的
道具とされている本村さんの立場への配慮を含めて考えれば、容易に
導き出される社会的通念である。司法家は、時に社会通念に抗しても
真実を貫くことはあろうが、完全に独立しているわけではない。もし
そう考えているとすれば、司法関係者の思い上がりである。
(改行は引用者j_m_w_tによる)

そうではなくて、常識と正義の概念が問われているのだ。 - AnotherB

 さて。
 BigBang氏が事の終わりを告げないままに次の事に進もうとしているようである。
 予め言えばそれは結局事の全てを気紛れな不始末だったと決定付ける事だろう。


 従って、ここでその振る舞いを許容する訳にはいかない。そしてそれは別の側面
 から言ってもそうである。引用して示した文章は次の文章とも齟齬しているからだ。

どうやっても、あなたに神の視線は与えられないのだ。当たり前のこと
なのだが、そういうことだ。つまり、反する側は反すればよいし、語る
べき側は、粛々と語っていけばいい。 (改行引用者)

世界の再構築を「3番目のもの」に関して考える: BigBang

 弁護士は「反する」側であるからその職責に従って反しているはずなのであって
 小倉弁護士からの指摘も全くその点に集約される。勿論それを踏まえなおこの
 弁護団の話に有効性があるかどうかは疑問だろうが、その一点を突破口として
 独善じみた同情論をぶっているのではそこに正義への真摯さはないように思う。


 それが独善じみているというのはこういう事だ。それは法曹三者の役割をひどく
 安易に超越出来ている気になっている。つまりその役割を軽く扱っているのだ。
 被害者遺族の側の一方的な言い分で事が済むなら法曹三者が何故要るのか。
 無論これも原則論ではある。しかしでは何故原則論で返されるのかという事を
 まず考えるべきだ。というのもBigBang氏やそうした類の発言が全く混乱して
 いるからである。それが混乱しているのは次の二つの事を混同しつつ主張して
 いるからである。その二つの事とは「弁護として」失当かどうかと「常識として」
 許容可能かどうか、の二つだ。そしてこの二つはある単語を通じて混同される。


 それが「常識」というマジックワードだ。それは遍く社会を覆うものだとされては
 いる。その定義上自らと社会を通じさせる理路として使いやすい代物ではある。
 だがその使いやすさは正しさとは別の事だ。使いやすい言い訳は思考停止に
 陥れうる。それは例えば正義を追求してきた歴史を何も考えず愚弄させたりも
 する。法の正義を現実化する際の弁護人の役割を度外視させたりもするだろう。


 全く問われているのは「常識と正義の概念」である。そこにまず楔を打ち込む
 べきなのだ。常識が正義を詐称するなら下劣化と卑小化が始まるからである。
 

 なお、念のため言えば正義を現実化する法の過程を常識で侵犯しない場合は
 当の法の過程についてより慎重な発言が出てくるべきである。つまりそういった
 「一見」弁護としてさえ失当であるような発言の根拠をまず探る事になるだろう。
 そうする事さえもなしにいかにも訳知り顔に弁護人らを審判する者は全くどんな
 立ち居地にいるのか。あえて言えばプロの裁判官よりも判断力に富んでいると
 自負しているのでなければそんな横暴なやり方で結論を急ぎはしないだろうに。
 


 平たく言えば神にでもなったつもりなのだろうか。括弧付きの「常識人」たちは。

 
  
 それを飽くまで括弧付きのものだと言うのは審判のプロを信用せず我先に審判
 してしまおうとしている不躾さこそ常識外れだと僕自身が感じているからである。
 そして司法における三者の分担というものを今日の常識であると考えるからで
 その権力分割は暫定的とはいえ相応に意味のある正義への答えだろうからだ。


 その答えへの気紛れな侵犯を許容は出来ない。例えそれが被害者への同情を
 装おうともだ。それはその気紛れの台頭が被害関係者から自由を静かに奪って
 ゆくからだ。気紛れな処罰感情も当事者にとっては重大問題になるからである。
 マスの気紛れな処罰感情を当事者に代表させる事は全くおぞましいものである。
 それは無自覚に静かに行われるコントロールであり、全く下劣さの始まりである。


 ともあれ
 ここでBigBang氏に話を戻そう。氏はそれまでに扱った件の始末をまだ十分に
 つけ切れていない。そしてそこでとりうる選択肢は大雑把には次の4つだろう。
 1:事を終わらせ遅延の理由を明かす。
 2:終わらせきれない理由を説明する。
 3:問題自体を取り下げる、と表明する。
 4:終わらせない。ただ問題を放置する。
 
 さて。

数撃ちゃ当たる!?(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その⑥)

 さて。
 気紛れが続いている。期待と安心を育てないままただずるずると惰性は続く。


 ともあれ

さて、このような集会と意見表明は、特定個人あるいは集団にとってモラル・
ハラスメントに当たるのだろうか。これにより、自分(達)は精神的に深く
傷ついたと主張するのだろうか。死んでしまうかもしれない。生きる気力が
なくなった。ネットに陳腐な遺言ごっこを記し、当該警察署に「この集会
あるいはニュースのためでアリマス」と報告もするのだろうか。
(翌日追記:例によって改行はj_m_w_tによる)

五月闇 5: 黒崎夜話

 全く馬鹿げた話がなされている。この文で「このような集会」として指示されて
 いるものについてはただ一点を指摘するだけで十分である。それはネット外の
 話だ。つまり具体的な生活に関する話だ。具体というのは全く身体を具えると
 言う事だ。そこに痛点がある事だ。それは生活実感と言い換えてもいいだろう。
 それはこういった集会を行う理由としては第一等の地位に相当するのだろうし
 逆に言ってその名に値する公が利害を調整しなければならない理由にもなる。
 

 しかし
 ネットにはそれはない。ネットは私有地ではない。そこには距離の概念もない。
 あるいはより正確に言えば隔たりの感じを図るための目安となりうる何もない。
 そして当然の事だが人がそこで住み生活する権利でさえ主張出来ないだろう。
 従って、そんなところの例えとして「このような集会」を引き合いに出す事自体
 それだけその者の生活実感なるものを物語ってしまうという事になるのだろう。
 具体的には自他の痛点に関する無自覚であり、または実感の希薄化だろう。
 そしてここで注意しなければならないのは、単にそいつの実感が希薄である
 だけではなく、そのような希薄さが発言を介して広がるという希薄化の過程だ。


 それを確認するためにここで試みに予言について考えてみる事にしよう。無論
 常識的に言って予言というのは当たるか当たらないか解らないような形で発言
 される。「誰にでも当てはまる事」とか「いつか必ず起こる事」はそれだけでは
 予言にはならない。同様に、その予言内容の実現に予言した者が関わっては
 その先見の明なんてものの証にはならない。「あんた死ぬわよ」といった直後
 にズドンと一発撃ってやるのは予言じゃあない。そういう意味で、延々続いたり
 する場合も先見の明の証になどならない。例え結果的にその発言内容が実現
 したとしてもである。世界が滅びるまで呪いの言葉を吐き続けるのは事の先が
 見えているのとは別の事なのだ。雨が降るまで雨乞いを続けようとも同じ事だ。
 
 
 そういう訳で
 前兆ばかりを五十回も書き連ねてれば誘導の気を疑われても仕方あるまい。
 そしてそれを見越した説明がすでになされていない時点で見定められている
 ビジョンにどれほど実在性があるのかまたないのかはおのずと明らかだろう。

翌日追記

 上のエントリに追記したのと同時刻に誤字修正と改行の文責を付加している。

ワナビー/罠 BE

私には上記文章がわからない。つまり、私には
理解できない。だが、諦めるのはまだ早いと思う。

そういえば、難問を与えられていたのだった。 - けろやん。メモ

 雨蛙氏からのトラックバックの要点だが、簡単に言うならデグチ・ホソナールの
 ように見えるという事だ。関心を引く間口を広く取っておきながらそれについて
 深く知ろうとする方法を極端に制限しておく方法をとるなら、そもそも関心を引く
 事そのものが罠か餌かって事にもなってしまう。知る方法が極端に制限されて
 いればそれについて知ろうとし始めた奴を罠に掛けるのは非常に容易いからだ。

 
 具体的に言えば御堂岡氏がそういった人間かどうかを「実際に」確認するには
 雨蛙氏の方か御堂岡氏の方かどちらかとネット外で接触をする必要が出てくる
 だろう。そしてその確認を経なければ御堂岡氏についての発言が嘘かどうかも
 解らない。よくよく知られた噂話も正しい事とは限らない。よくよく知られただけ
 だという事なんてままある事だ。だからその発言に反論する方法さえ限られて
 くる事になる。いかにも罠くさいやり方に従わなければ反論さえ出来ない訳だ。


 そしてそれでいてその発言を見過ごしていいとはとても思えない。内心の暴露
 になっているからだ。御堂岡氏のような人間に対するものとはいえ、見逃せば
 前例になっていってしまう。勿論その罠くさい反論封じの方法も一緒にである。
 hankakueisuu氏によるなら「嘘でたらめとご都合主義のインターネットでは
 貴方の情報格差、経験は一切の効果を持たない」と言うべきところなのだろう
 が、実際のところ「ありもしない情報格差」さえ効果を挙げる事もあるのである。
 当然正当な情報格差も効果を挙げられる。それは人を引っ掛けるのに役立つ。


 これは松永氏によるwikipedia関連の話とも繋がるが、要するに情報の安全
 性に関する問題なのだ。インターネットでは使用者相互の不信感を解消する
 ため真実は金繰り捨てられている。それは安心感のために犠牲にされている。
 勿論安全と安心感とは全然違うものである。安全は事実の領域にあるのだが
 安心感は印象や感情の領域で揺らぐ。そんなもののために正しさを犠牲には
 出来ない。そこでとりうる選択肢は実際いくつかあるだろうが、僕はその前提を
 取り除く方法を選んだ。つまり目に留まる限り罠くさい発言を取り除く事である。
 使用者相互の不信感を抑えられたなら当然不信感の犠牲も減らせるはずだ。

翌日追記:なんだ

 さて。
 返信トラックバックが来ているが、どうもといったところである。そこでは何だか
 「ネット外での接触」についてこちらが主張をしているかのように読み取られて
 いるようだが果たしてその読解は正確なものかどうか。その種の接触要請を
 してきた相手が誰なのか。端的には御堂岡氏だ。そして、僕がその御堂岡氏
 に誰をなぞらえたのか。端的に言えば雨蛙氏だ。ネット外で確認しなければ
 反論さえ出来ないような方法を使ったからだ。そこでネット外で確認してさえ
 有効な反論の難しい事例の話を出してきても全然何の解決にもなりはしない。


 雨蛙氏のこの文章は全く混乱している。そもそもこちらの主旨について「逆に
 言えば」といっているところがおかしい。そこで言われているのは全くの「逆」
 であり、こちらの立場とは「逆」のものだ。それにも関わらずその「逆」の立場
 についての危険性を雨蛙氏はこちらのものででもあるかのように書いている。
 無論主旨をそのまま反映しつつ言い換える事で裏打ちをするような場合にも
 「逆に言うと」とは言うが、ここでの雨蛙氏の言い換えは主旨を正確に反映
 している訳ではない。むしろ「逆」にしている。正確に主旨を反映しつつ言い
 換えるなら「ネット内で解決の見込みがある問題をネットで扱うべき」である。


 もう一つ。psycho78氏が松永氏と同一人物かどうかなどさして問題では
 ないだろう。何故なら重要な事はその同一性がどうだろうと当の発言者に
 対し反論出来る事の方だからだ。psycho78氏の振る舞いに対し文句を
 つけようと思えばさしあたりpsycho78氏に対して言ったら済むからである。
 そしてその反論によって問題の振る舞いを取り除けさえすれば正体なんて
 どうでもいいのである。そんなのは内心の問題として発言者が抱え込めば
 いい。たとえ嘘言って読者らを騙していようとそんな事は知った事ではない。
 その二面性が「仮にあったとして」そんなのにわざわざ付き合う必要はない。
 そしてそうした手法で不都合が出るのなら、その問題をネットで扱うのには
 無理があったという事だろうから、つまり問題そのものを放棄すべきだった
 という事だろう。そうであれば問題に関連した事をこの期に及んでぐだぐだ
 続けている向きに対して制止と自制が作用しなければならなくなるだろう。
(追記後ほぼ同時刻修正あり)

暗黒空間の軌跡(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その⑤)

 さて。
 事は続いている。終わってはいない。それは終わらせるに足る意志の
 表明がなされていないからだ。現状に見られる停滞は惰性でしかない。
 そして惰性は信用ならない。それは気紛れの伏流にもなりうるからだ。
 気紛れは期待を裏切る。それは期待と安心を奪う。心の安定を損なう。
 人を巻き込んでいる状況で、そのような態度の持続は破廉恥であろう。

 
 ともあれ
 ここでは特に見過ごしがたいいくつかの事を指摘して記録に留めよう。

「宇宙は寛大だ」

破壊魔定光 12 (12)

地球全体が高熱化していくのが、人間「ごとき」の影響
で、それを人間「ごとき」が止められるというところの、
そのへんのあたりがどうも、すっきり頭に入らない。

地球温暖化に関して、ふしだらな思いを抱く。 - AnotherB

 ここで見過ごされているのは「高熱化」の尺度が何なのか、という点で
 ある。宇宙にとっては数百度ごときの温暖化はどうって事はないはず
 である。星が消えようがどうって事はないはずだ。従って、考えるべき
 事はここで「高熱化」を問題にする視点がどこなのか、という事である。
 答えはスフィンクスの謎と同じである。つまりは「人間」そのものなのだ。
 つまり人間ごときにとって問題になる事を人間ごときがやらかしている
 という構図なのである。つまり、ここで氏の文は因果の一方を恣意的に
 強調している。その強調が無意味化を行う梃子となっているのである。
 つまり、この読み方は自分から責任を取り除くトリック染みているのだ。
 
  
 さて。
 この話題自体にはさしたる興味はない。重要なのはそのトリックであり
 そしてそのトリックが欺瞞的な無力感を造りだしているという点である。

 
 つまり
 懸念されるのはこうした欺瞞が予告を裏切るように仕向けるかどうかだ。
  

隠されたもの

安住の地である薄汚い部屋に帰ると、彼は、「どうしてこうなって
しまったのだろうか?」と嘆息を吐きながら、故郷からの仕送りで
手に入れたパソコンに対座して、「殺意が湧くのだが」などと力
強く書き込む。彼にとって、ネットの中は、桃源郷である。可視
可能である不健康な肢体は、外部から対象化されることなく、内部の
コンプレックスは深奥に秘匿する。無意識の所作である。

ワーキングプアにもなれなくて・・・ - けろやん。メモ

 雨蛙氏の文だが、この文章自体が御堂岡氏のかねての誤りと相似
 的だというところにはどれほど注意が払われているのだろうか。この
 文の参照を制限する事でもっともらしさを得ている辺りが問題なのだ。
 それは「真実」を、それも括弧つきのそれを独占する振る舞いである。
 しかもこうやってネットに乗せる事で間口だけは広く確保しようとして
 いる。これは全く御堂岡氏のおかしさと同根である。御堂岡氏は随時
 自身の専門性に言及し、それをもって他の意見や立場を退けようとも
 してきている。素人はすっこんでろ、というのは至極勿もな発言では
 ある。だが実際御堂岡氏はこの問題自身をネットから取り除こうとは
 してこなかった。つまり素人がアクセス可能な位置に問題を残しつつ
 それに引き寄せられた素人を退けようとするのである。そしてそこで
 重要なのは「素人/玄人」の尺度がやはり隠されたままだという事だ。
 ネット外で接触しなければ解消できない問題ならそもそもネット上で
 扱うべきではないはずなのだ。ネット上では誰でもが好きに発言する
 からだ。つまりネットで野次馬が群れるのを妨げずに専門性ばかりを
 要請するのは実に異様な行動なのである。これもトリック染みている。
 
 
 そして
 この雨蛙氏の振る舞いも実際異様である。ネット外の身体が対象化を
 免れているという基本的な事柄に言及しているようでいて、その実は
 必ずしも表現されている訳ではない内心の覗き見から暴露をしている
 からである。そうした括弧つきの読心術はやはりトリック染みている。

オカルト (occult) とは、元来は「隠されたもの」という意味のラテン語に由来
する表現であり、目で見たり、触れて感じたりすることのできないことである。

オカルト - Wikipedia

隠しゆくもの

「ネットから戦略的退却をしてリアルでのみ動き始める」
あのね、動かしたとか自慢そうに語る局面ではないの
ですよ。重要な監視対象というだけのこと。注目すべきは
「戦略的撤退」という単語である。自殺未遂(と呼んで
いいか疑問であるが)が本意ではなく、単なる戦略、
すなわち擬装もしくは偽装であったことをこの書き手は
主張しているのであった。(改行はj_m_w_tによる)

認識の致命的なズレ: 黒崎夜話

 さて。
 実際これは酷く異様な文である。次のような具体的な状況を想像して
 みよう。年末進行を目前に控えているところでうっかり風邪をひいた。
 症状はまだ大した事はないが、大事をとって今休んでおく事に決めた。
 「戦略的撤退だな」とかどっかで誰かが言っていた。それを聞きつけ
 その戦略性をズルやサボりめかしていう奴が出てきたらどうだろうか。
 
 
 ともあれ
 全くもってこの認識のズレは致命的なものとなりうるのだろう。無論
 そこで懸けられる命は発言者当人のそれではないのだろうから、ここ
 ではそのトリックに着目しなければならない。それはおよそ自分から
 責任を取り除く欺瞞であり、さらに「真理」の独占を伴っているだろう。

背後を見張れッ!(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その④)

 さて。
 事の成り行きは続いているようだが、そこに見るべき人の意志はないようだ。
 随所にみみっちい揶揄は見られるものの、それに終始しているだけのようで、
 有体に言えば読むに足る意見というものはない。オウムに関する事件を広く
 扱おうとする人もないではないようだが、それならばそもそも松永氏を端緒と
 する必要のない事であるから、この場でそんな話をする事自体ごく妙な話だ。
 誰がどう考えたところで、松永氏一人の問題とオウムに関する事の総体では
 歴然とした落差があるはずである。つまり、それらを短絡させる事はトリック
 染みた話であり、殊に後者を使って前者を断じるのはいかにも恣意的だろう。
 その恣意性が社会的な事柄に対して不遜だという事は言うまでもないだろう。

 
 また
 そもそもの発端にジャーナリズムに関する問題が付随していたにも関わらず
 現状で事の始末に関するまとまった発言がなかなかに見られない辺りもごく
 妙な話だと言わなければならない。無論それはまとまった発言をしない当人
 そのものだけの問題ではなく、かつてはジャーナリズムもどきを盛んに告発
 していたはずの人の一貫性にも深く関わる事である。にわかジャーナリズム
 にもにたここいらの不始末について何も言う事がないのであれば、要するに
 かつての振る舞いについてもその意味が再考される必要が出てくる事だろう。

 
 なお
 言うまでもなくおおよそあらゆる遠近の関係者にとって、事の終わりが現状
 望ましいだろうという事は理解出来る。しかしそこで考えなければならない
 事は事から離脱しうる順序であり、逆に言えばある離脱が事に何を残すのか
 という事である。一抜けたと言える事がそもそも特権である事を知るべきだ。
 その気紛れは事の公然性とは余りにも不釣合いであるし、端的に卑小である。


 そして
 卑小さについて一言で言うなら、それは悪ほどに魅惑する事さえないものだ。