背後を見張れッ!(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その④)
さて。
事の成り行きは続いているようだが、そこに見るべき人の意志はないようだ。
随所にみみっちい揶揄は見られるものの、それに終始しているだけのようで、
有体に言えば読むに足る意見というものはない。オウムに関する事件を広く
扱おうとする人もないではないようだが、それならばそもそも松永氏を端緒と
する必要のない事であるから、この場でそんな話をする事自体ごく妙な話だ。
誰がどう考えたところで、松永氏一人の問題とオウムに関する事の総体では
歴然とした落差があるはずである。つまり、それらを短絡させる事はトリック
染みた話であり、殊に後者を使って前者を断じるのはいかにも恣意的だろう。
その恣意性が社会的な事柄に対して不遜だという事は言うまでもないだろう。
また
そもそもの発端にジャーナリズムに関する問題が付随していたにも関わらず
現状で事の始末に関するまとまった発言がなかなかに見られない辺りもごく
妙な話だと言わなければならない。無論それはまとまった発言をしない当人
そのものだけの問題ではなく、かつてはジャーナリズムもどきを盛んに告発
していたはずの人の一貫性にも深く関わる事である。にわかジャーナリズム
にもにたここいらの不始末について何も言う事がないのであれば、要するに
かつての振る舞いについてもその意味が再考される必要が出てくる事だろう。
なお
言うまでもなくおおよそあらゆる遠近の関係者にとって、事の終わりが現状
望ましいだろうという事は理解出来る。しかしそこで考えなければならない
事は事から離脱しうる順序であり、逆に言えばある離脱が事に何を残すのか
という事である。一抜けたと言える事がそもそも特権である事を知るべきだ。
その気紛れは事の公然性とは余りにも不釣合いであるし、端的に卑小である。
そして
卑小さについて一言で言うなら、それは悪ほどに魅惑する事さえないものだ。