君さえいれば

向かおうという意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げた
としても、いつかは辿り着くだろう?向かっている訳だからな
・・・・・・・・・違うかい?

荒木飛呂彦先生『ジョジョの奇妙な冒険』59巻

 さて。
 またしても迂回路から始めるが、前回同様に引用しないでおこう。
 

 で。
 料理を食べる目的についてだが、これは栄養を摂る事ではない。
 そう考える奴がいても、そういう奴に料理なんて必要じゃあない。
 サプリメントで十分。つまり料理なんて食べない訳だ。そんな奴
 に料理の目的なんて解るはずがない。故に、そいつの主張して
 いる料理の目的なんて傾聴には値せず、料理の目的は栄養を
 摂る事じゃあないとはっきり解る。哲学の目的もこういうものだ。
 哲学の美食家たちもいるにせよ、少なくとも僕にとってはそうだ。

 
 勿論トニオ・トラサルディーのイタリア料理店のように、愉しんだ
 結果として健康が手に入る事もあるだろうが、それは目的では
 ない。だから哲学の効能を尋ねる事はシニカルで余りよくない
 事ではある。料理のメニューに効能書きがないとかいって腹を
 立てるようなものだ。だがその問いに敢えて応えるなら哲学は
 常に、あなたの自由を提案している。おいしい店を教える美食
 家たちはどう言うのか知らないが、味わう事を愉しむ者はその
 愉しみを教えてくれるだろうし、一人でもそれを愉しめるように
 一人でも出来る料理を教えてくれる事さえあるのかもしれない。


 勿論これはシニカルな答えだ。愉しんだ事がなければそれの
 意味も解らないだろうからだ。だが、シニカルな問いに対する
 答えとしては、おそらく、相手に相応しい回答ではあるだろう。




 さて。
 Bait_Assalam氏から訂正のトラックバックが来ている。正直に
 言ってよい訂正とは思えないがともかくもまずは引用しておこう。

彼の記述を読んで、私の目からはこう読める、という
ことで、BigBang氏の内心は違うかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/Bait_Assalam/20080319

 これがよくないのは、自分の憶測を単に憶測だとしか言えない
 というところだ。他人の内心についてを守るとか言う事ともここ
 では関係ない。これでは単に自分の判断理由も述べられない
 無力さを、内心の不可侵性に責任転嫁しているだけだからだ。
 

 判断が憶測に過ぎないと言うのはあまりにも当たり前の事で
 言うまでもない事だ。何よりも「自発的に訂正させる意志」を
 松永氏が理解出来ていればよかった、と言う文脈での話だ。
 そして、それを「はっきりと伝えていれば」という話だった訳で
 その内容を憶測に過ぎないと言って引っ込めようとするのは
 全く傲慢な事だ。それでは一体理解すべきだったのかどうか。
 ここで傲慢なのは自分の判断について他人がそのまま受容
 するというような、天動説的な前提が含まれているところだ。
 何故自らの判断について、その理由を内省し伝えようとする
 事ではなく、判断自体も根こそぎに無効化しようとするのか。
 

 他人がいれば、自由な他人が考えたのなら、違った結論を
 出すかもしれない。だからこそ、自分の判断根拠を提示して
 精錬する意味がある。それをしないのは、結果的に言えば
 他人の自由と、その判断とを信用出来ていないと言う事に
 なってしまう。無論、その態度はいい。好きにすればいいし、
 どうでもいい。しかしそれが他人の自由を損ない始めるなら
 話は違ってくる。それは自分の愉しみを損ない始めるからだ。