根をもつこと

人は迷子になると言う事を 抱いて歩いて 行けるから
どうぞ手を 離して 何度傷跡が消えても 繰り返す
まるで 過ちのように 嗚呼 僕等、バラ色の日々

鬼束ちひろ「僕等、バラ色の日々」

 さて。
 また少し時間が開いたが、これもまた意図的に間を空けたものである。
 この半月ほどの間に、松永氏関連の問題を追ってきたブログが幾つか
 問題の追跡から外れている。その個々については後回しにしておこう。


 ところで
 またも迂路だが、昨今の若年者の犯罪についてアニメとかゲームとかを
 問題視する向きの問題を見よう。この浅薄な態度のどこがよくないのか。
 槍玉に挙げられる方の怒りは問題じゃあない。それは公共性とは関係が
 ないからだ。だがこの怒りが公器によってしか生まれないなら話は別だ。
 そしてこの浅薄な動機分析が具体的な問題を覆い隠すなら問題になる。
 では、どういったものが具体的な問題点として相応しいものなのだろうか。
 つまり、具体性とはどういう事かと考えれば、それは抽象的でないという
 事になるだろう。それは観念のレベルに抽象化されていないと言う事だ。
 この定義は消極的なものだが具体性の観念そのものは抽象的であると
 言う事を考えればその消極性も怪しむには当たらないだろう。その上で
 注意すべきなのは曖昧なものと抽象的なものとは違う、と言う事である。


 月面から見れば地上の五歩なんて曖昧にしか見えないかも知れないが、
 だからといってその五歩がなかった事になる訳はないし、ましてや観念
 的なのだと言われる筋合いなんて生まれない。それは抽象的ではない。
 勿論曖昧にしか見えないその五歩についての未確認情報は抽象的だが、
 具体性そのものは決して欠損せずにそこにあり続ける。単にその見方を
 誤るだけだ。適切な見方を学びさえすれば月面から地上を判然と見る事
 だって不可能ではない。具体的なこの距離を手繰りさえすればいいのだ。


 勿論、抽象性が邪悪と言う訳ではない。この議論自体も抽象的ではある。
 問題なのは、曖昧にしか見えなかったものを単に抽象的なもので上書き
 して済ます事だ。その曖昧さのために、何が何だか解らなかったとしても、
 そこで、解らなかったと言う具体性から逃れようとして観念にジャンプする
 事こそ問題なのだ。具体性を追跡して辿ってゆくには忍耐が必要となる。
 それでも具体性の追跡が不可欠な場合は必ずある。具体性は観念とは
 違って、そのイメージ次第でどうにでもなったり、出来たりはしないからだ。


 で、
 若年者の犯罪動機の浅薄な分析は、よく見るまでもなく抽象的なものだ。
 それは具体的な関係性を切り捨てたものだ。その点は成人の事件だって
 同じだ。ごくありふれて嘘臭さの漂う理由なんて、まさにありふれている。
 それらと、若年者の犯罪動機分析の違いは、人間的な具体性の有無だ。
 ゲームなんかを槍玉に挙げる観念は、単に、そうした情報を摂取している
 だけの人間を前提にしている。つまりは何も考えないような姿で最初から
 イメージされている。それは曖昧なものへの真摯な追跡の正反対である。
 知った風な口を利いているだけじゃあなくて、自己免罪までしている訳だ。


 さて。
 冒頭に書いたが、松永氏関連の問題を追跡していたブログがその追跡を
 降りている。具体的な理由は知らないが、それを探すよりも先に、改めて
 書き記すべき事は、結局、松永氏の何が問題だったのか良く解らないと
 言う事だ。僕は問題を追跡していたが、別に提起まではしてきていない。
 そしてその問題点を説明できるのは、問題の見方を知っている者だけだ。
 その彼らが継続的な説明の場を自ら去った今、問題はどうなるのだろうか。
 さて。