DIOの吸血鬼(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その⑧)

 さて。
 一週間が過ぎたという言い方は実際不適切である。何故なら一週間前に書いた事を
 その前に書かなかった訳ではないからである。括弧付きの「常識人」の権限神授説に
 ついてはすでにここに書いた事のバリエーションである。ネット上で問題を扱うべきか
 どうかの問いかけもすでにこの辺で行っている。あるいは、プロフェッショナルというか
 専門家についてはこの辺これがそうなるだろう。細かく見ればまだ色々あるだろうが
 原則的に言っている事がそう変わっている訳ではない。少なくとも書いてきた側からは
 ここに変化の痕跡を見出す事が出来ない。だがその意味は全く同じという訳ではない。
 そこには持続があるからであり、その持続を支持した心血が確かにあったからである。
 そしてその心血を注ぐ理由と注ぐべき事情に変わりがない以上、同じ事が続けられる。

Now since the real test for any choice is having to make
the same choice again knowing full well what it might cost.
(私訳:選択の本当の試練はその代償が何になるか知りながら
     なおその同じ選択をしなければならなくなる、ということ)
マトリックス レボリューションズより、オラク

 そこで考えなければならないのはその選択を続ける事情が果たして変わっていないか
 どうかだ。逆に言うとその選択がなお必要なのかどうかだ。もう少し言うと前の選択の
 効果だ。それを代償と比較する。それを勘案してなお選ぶかどうかを再び決める訳だ。

 
 だから最も注意すべきなのはその効果がゼロなのかどうかという点になってくるだろう。
 殊に選択の相手がほぼ変わりないような場合はそうである。何故ならそうした場合は
 心血を浪費させる事が無意識の目的とされている懸念が出てくるからである。それは
 無論その相手自身心血を浪費させるという変わりない選択を続けえているという事に
 なる。酷いものになると全くその態度は吸血鬼じみてくる。「DIOから血を貰ったろ?」
 とでも聞いてやりたくなるところである。そして、そこに気がつく事なら事情の変化にも
 数えうるだろう。何故ならそうした気質が変更可能であれ不能であれ、その気質への
 自覚が出来れば、同じ選択の繰り返しも必要ではなくなるからだ。端的に言えばその
 自覚が心血を要した事情を塗り変えうるのだ。その根本的な成長が心血に報いるのだ。
 

 さて。
 一年前のエントリを再掲しよう。その意味と必要性がなお深まってきているからだ。

 ネットでは問題が拡散してしまうという事は、当然に予測すべき
事であろう。そして拡散させたものと収拾するものとが同じ人とは
限らないのも当然である。それはその「物語」の正当性ではなく、
手段の正当性を大きく損なう事になる。 
ブログジャーナリズムについて - 売文日誌
(20070604の再引用に当たって改行を変更)

 これら至極当然の事からして、ネット上で何らかの問題解消を試みている
限り、そこに第三者の介入があったとしてもそれを責めるべき理由はまるで
ないと言う事になる。そもそもネット上ですべきじゃあないからだ。この事は
単純に「伝言ゲーム」という単語を知っていれば当然に推測出来る事である。
つまり第三者介入に文句付ける前に問題の拡散を座視した事の方を責める
べきであって、それは重要な問題に人を巻き込まないという当然の事である。
特に、介入してきた第三者が素人だと言うのであれば、そもそも素人程度に
介入「しうる」ようにしてしまった事こそ問題にすべきだ。優位にある方こそが
劣位にあるものを守れなければならない。巻き込むなどもっての他のはずだ。

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