数撃ちゃ当たる!?(亜空の瘴気 ヴァニラ・アイス その⑥)

 さて。
 気紛れが続いている。期待と安心を育てないままただずるずると惰性は続く。


 ともあれ

さて、このような集会と意見表明は、特定個人あるいは集団にとってモラル・
ハラスメントに当たるのだろうか。これにより、自分(達)は精神的に深く
傷ついたと主張するのだろうか。死んでしまうかもしれない。生きる気力が
なくなった。ネットに陳腐な遺言ごっこを記し、当該警察署に「この集会
あるいはニュースのためでアリマス」と報告もするのだろうか。
(翌日追記:例によって改行はj_m_w_tによる)

五月闇 5: 黒崎夜話

 全く馬鹿げた話がなされている。この文で「このような集会」として指示されて
 いるものについてはただ一点を指摘するだけで十分である。それはネット外の
 話だ。つまり具体的な生活に関する話だ。具体というのは全く身体を具えると
 言う事だ。そこに痛点がある事だ。それは生活実感と言い換えてもいいだろう。
 それはこういった集会を行う理由としては第一等の地位に相当するのだろうし
 逆に言ってその名に値する公が利害を調整しなければならない理由にもなる。
 

 しかし
 ネットにはそれはない。ネットは私有地ではない。そこには距離の概念もない。
 あるいはより正確に言えば隔たりの感じを図るための目安となりうる何もない。
 そして当然の事だが人がそこで住み生活する権利でさえ主張出来ないだろう。
 従って、そんなところの例えとして「このような集会」を引き合いに出す事自体
 それだけその者の生活実感なるものを物語ってしまうという事になるのだろう。
 具体的には自他の痛点に関する無自覚であり、または実感の希薄化だろう。
 そしてここで注意しなければならないのは、単にそいつの実感が希薄である
 だけではなく、そのような希薄さが発言を介して広がるという希薄化の過程だ。


 それを確認するためにここで試みに予言について考えてみる事にしよう。無論
 常識的に言って予言というのは当たるか当たらないか解らないような形で発言
 される。「誰にでも当てはまる事」とか「いつか必ず起こる事」はそれだけでは
 予言にはならない。同様に、その予言内容の実現に予言した者が関わっては
 その先見の明なんてものの証にはならない。「あんた死ぬわよ」といった直後
 にズドンと一発撃ってやるのは予言じゃあない。そういう意味で、延々続いたり
 する場合も先見の明の証になどならない。例え結果的にその発言内容が実現
 したとしてもである。世界が滅びるまで呪いの言葉を吐き続けるのは事の先が
 見えているのとは別の事なのだ。雨が降るまで雨乞いを続けようとも同じ事だ。
 
 
 そういう訳で
 前兆ばかりを五十回も書き連ねてれば誘導の気を疑われても仕方あるまい。
 そしてそれを見越した説明がすでになされていない時点で見定められている
 ビジョンにどれほど実在性があるのかまたないのかはおのずと明らかだろう。

翌日追記

 上のエントリに追記したのと同時刻に誤字修正と改行の文責を付加している。