「ああ・・・オメーの兄貴は最期にオメーを庇ったよ」

荒木飛呂彦先生「ジョジョの奇妙な冒険」30巻


 「ホテル・ルワンダ」の件で「日本人」って立場を
強調した事についてだが、これを身贔屓としか見られ
ないのは酷く欺瞞的な事に思える。世界精神になった
つもりかどーかはしらないが、そうやって歴史の背景
から自分を切り離すというのもまたポジショントーク
だという事。否定的に喋る事で問題の当時に見られた
気質を乗り越えられたかのようにも考えうるからだ。
そこに現実的な持続を見ていないなら上っ面しか見て
ないという事になるのだ。殊更に贔屓する事と彼我に
横たわる持続を思う事とは違う。「受け継いだ者」が
そうしなければ誰がそれを思うのだろうか。虹村形兆
という殺人者についてその悪性を知りつつ「悲しむ」
事は弟の億泰の権利でありその億泰が兄形兆に庇って
貰った事を一抹の誇りだと見なして何故いけないか。


 勿論嘘言っているだけの身贔屓なら悪くもあろう。
しかしそれでも虹村形兆が人間である以上その尊厳を
身近い誰かが誇るくらいはやはり許せる必要がある。


 政治的には、拉致被害者家族が「飽くまで家族」と
言う立場にたつとかイラクでの人質の家族もそうした
とか言う例が「効果的」な気がするが、詳細はおく。
この事は行政府とは実際は関係なしに成り立つからで
あり、ともかく「身近い」かどうかが肝要だからだ。

・・・

http://d.hatena.ne.jp/travieso/20060305/p1#c


 無感情に書いた方が解り良いのかと思うので淡々と
指摘。一つ目。ventさんによる発言を引用する仕方が
妙。四日最後のエントリの書きだしは「やはり触れて
おこう」というニュアンスで、一度スルーしようかと
考えた跡だと受け取れる。二つ目。比較対象は虐殺の
背景としての民族間憎悪。とりわけその憎悪の程度。
三つ目。比較目的は憎悪がまだここにあるのかどうか
確認する事を通じ今後ありうる民族間憎悪の爆発への
予防。過去ヘの視線というよりはその逆では。日本人
としてその視線を持つ意味については町山氏も認める
はず。震災時に朝鮮人虐殺を止めようとした人にだけ
言及したと書いている辺りからそう考えられる。四つ
目。アウシュビッツという言い方は虐殺の代名詞で、
それを本気で信じるというよりは「動き出してからの
行動では止められない」という諦念では。「可能なら
憎悪が蓄積する前にそれを取り除きたい」という方が
主眼のはず。五つ目。上に書いたように町山氏自身も
認めるはずの発言もあり、両者を二者択一と見るのは
行き過ぎ。差異が矛盾へと直結する訳ではない。もし
そう見るならそれこそ憎悪に対する対策など無駄だ。

 だがそうではない。差異はただ差異であるだけだ。
とりあえずこの辺りまで。

「そんな受け取り方しか 出来ないんですか」

「困っている人を見殺しに出来ないという人間らしい
心をそんな風に・・・同じ海底人として僕は恥ずかしい!」
藤子・F・不二雄
 「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」


http://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks2/20060306/1141584208


 何故そんなに「政治的な揉め事」に仕立て上げるの
だろうか。死者数に対する言及が「それを意識せずに
いられているほど民族間の憎悪がない」という実感を
喚起する手段だったというくらいは解ってもいいはず
である。何故決めつけつつありもしない仮想敵に対抗
するのか。当初「日本人間対話」に触れられてもいる
ところ、そしてそれが将来あるかもしれない虐殺への
予防になりうるならなってほしいというところからは
何も受け取らないでいるのだろうか。それがこれから
何をなしうるのかを考えるより憎悪の真似事に価値が
あるといえるのだろうか。

 法と正義とを混同してはいけない。法は多数者から始まる。正義は少数者から始まる。そのどちらも結局誰しもに配分されていっているという「今日の」幸運があるにしても、それらの宿している声は違う声だ。

 また

 抑圧と支配を混同してもいけない。法は抑圧に加担しうるが、正義は抑圧に抗する仕方で現れる。しかしどちらもそれが声を発した者を離れてなお有効ならばそこに支配が確かにある。


 だから書く事は支配する事であるか、消費である。良かれ悪しかれ支配の力を見ていないのは欺瞞的だ。消費とはその欺瞞である。力を貰うだけであり自分の力を足していないからだ。

 そして

 管理と正義を混同してもいけない。それは単に力が動いているという点でしか似ていない。管理なら多数者に浸透しないと無効だが正義は単にそれがただあるだけでも有効である。勿論正義は無自覚な抑圧を動揺させる。瞬時にではなく、時間をかけて人を変える。正義は全く恐るべきもの。だが抑圧にはそうするしかない。ところで少数者とは自らを構成する力がそこで発現しているものである。自分自身が借り物ではないものである。より正確には借り物だろうと自分自身に馴染ませている者である。

 だから

 今日抑圧は珍しくない。多数者にある人間のモデルへの親和性はその者自身の単独性への抑圧だからだ。

 勿論

 その単独性はその者自身によって獲得される必要がある。さもなくば借り物を変えただけだからだ。書く事は些細な後押しなだけ。借り物を与えて支配した後にそいつが借り物を捨てる事への期待があるだけだ。