法と正義とを混同してはいけない。法は多数者から始まる。正義は少数者から始まる。そのどちらも結局誰しもに配分されていっているという「今日の」幸運があるにしても、それらの宿している声は違う声だ。

 また

 抑圧と支配を混同してもいけない。法は抑圧に加担しうるが、正義は抑圧に抗する仕方で現れる。しかしどちらもそれが声を発した者を離れてなお有効ならばそこに支配が確かにある。


 だから書く事は支配する事であるか、消費である。良かれ悪しかれ支配の力を見ていないのは欺瞞的だ。消費とはその欺瞞である。力を貰うだけであり自分の力を足していないからだ。

 そして

 管理と正義を混同してもいけない。それは単に力が動いているという点でしか似ていない。管理なら多数者に浸透しないと無効だが正義は単にそれがただあるだけでも有効である。勿論正義は無自覚な抑圧を動揺させる。瞬時にではなく、時間をかけて人を変える。正義は全く恐るべきもの。だが抑圧にはそうするしかない。ところで少数者とは自らを構成する力がそこで発現しているものである。自分自身が借り物ではないものである。より正確には借り物だろうと自分自身に馴染ませている者である。

 だから

 今日抑圧は珍しくない。多数者にある人間のモデルへの親和性はその者自身の単独性への抑圧だからだ。

 勿論

 その単独性はその者自身によって獲得される必要がある。さもなくば借り物を変えただけだからだ。書く事は些細な後押しなだけ。借り物を与えて支配した後にそいつが借り物を捨てる事への期待があるだけだ。