「その必要のない街で 二人は何をうろたえたのだろう」
「そんな必要のないこの街で」
鬼束ちひろ「漂流の羽根」
http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060305#p1
「ホテル・ルワンダ」のパンフにある町山氏の解説
文をうけたfinalventさんの文へのさらなる批判だが、
何でそうなるのだろうか。心情主義への批判とか単に
虐殺のレベルが違うという言い方はどこにあるのか。
元の文が町山氏を批判しているとすれば、それはある
かもしれない教条主義ヘのそれだけではなかろうか。
そもそも、ここで町山氏批判がなされているのか。
より正確に言えば、それを主たる目的とした文だった
のかという事が問われてもいないのは何故だろうか。
そして、日本人のこれからという大きなテーマに言及
している文章からその骨を抜き取るのは何故なのか。
町山氏のパンフが書かれた時点で時が止まっている訳
ではないのだから、パンフにばかり注目する事よりも
そこへときちんと応答する事を通じて先を見るべき。
そして、まず、その応答として歴史の内部へ遡行して
から、さてどうするか、と日本人同士の対話ヘの淡い
期待に触れているだけではないのだろうか。つまりは
そこでは「町山氏の是非」など問題にならないはず。
氏はきっかけとして十分に「機能した」はずだから。
「無理だとか無駄だとか言う言葉は聞き飽きたし」
「俺達には関係ねえ」
荒木飛呂彦先生「ジョジョの奇妙な冒険」28巻
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
「ホテル・ルワンダ」のパンフ、という映画の内容
からすれば馬鹿げたくらいに些細な問題に落とし前を
つけている町山氏の文章。このエントリについて言う
べき事はタイトルにつけた承太郎のセリフで十分だ。
ただ、書いとくべき事として「違いをあげつらう」
事じゃあない仕方で違いについて考える必要もある事
がある。日本人ヘの特別視が要る。何故なら日本人で
あるからだ。そうではない人でもそいつなりの自問が
なければ、それはそれで、歴史から切り離されている
つもりになっていると言う事になる。100年も海の
底で生き抜いた化け物とか言うのなら話は違ってくる
だろうが、そうじゃあないだろうに。ファンタジーや
メルヘンじゃあないのだ。
ここでベルクソンだとか勿論ニーチェの名前と理論
とかを使う流儀もあるのはあるんだろうが、そういう
知的な言葉は必要な対峙を誤魔化しかねん気がする。