持続と同時性
・・・奴らめ・・・ボイコットだぞこれは・・・
高橋一郎『バレーボール使い郷田豪』3巻
ジスイズベリーボイコット!システム!*1
さて。
昨今の似非倫理批判って浅薄だと思う。人の代わりにシステムが喋る訳
ないのに、議論の過程にはそいつなりの聖化が介入したりもしてくる訳だ。
世の中にそういう人はいるし、そういう人だってまっとうに生きているだろう
から、特に問題が現れ出てない限りはむしろ叩こうとする側が軽く見える。
話は唐突なようだが実際のところそうじゃあない。これは問題の枕である。
問題は正義の問題をシステムの問題にするのは間違いだと言う事にある。
そうしたスタンスは全体を俯瞰して八方うまく丸めるような事を考える類の
ものである。それは思考の自発性を稀釈させるもので事が終わるまでの
傍観を心理的に後押しもし、もう少し言えば逆に傍観から後押しもされる。
逆に言えば、それでは問題の最中にそれをとめる事が出来ないのである。
その事は例えば俗に匿名論議だか談義だか言われる恒例行事がほぼ
議論自体を回避しながら停滞し続けている様を見れば解るように思える。
それが議論を回避していると言うのは例えば次のような事だ。そこでは
「何を言ったか/誰が言ったか」といった相変わらずの「便宜的な区分」
が何故か前提として保存されている。だがその前提は問題の本質から
十分に咀嚼された上で意識的に保持されているのではないはずである。
何を言ったか、という過去への疑問は当然ある程度の時間的な経過を
前提にしている。だがそれは「何を言ってきたか」というほどにまで幅を
持つものだろうか。何をどこでどう言ってきたのかという追跡は最終的に
そいつの識別に至る。つまりそいつが誰かというところにまで到着する。
いわゆる名無しである不特定名は一個の発言分しか射程を持たないが
固定ハンドルなどの特定仮名ではその仮名を使用した際の発言分まで
射程が広がる。そして特定仮名ごとで何を言うのか全く変えられるなら
狂言も容易くなる。かといって、ある程度発言に持続性を求めなければ
その内容を理解する事から難しくなるだろう。一口に言ってしまえる事
なんて限られている。補足説明出来ない状況での説明は苦行に近い。
発言に持続性を、その権利と責任を与えなければ言いたい事がまるで
言えなくなる事だってあり、これは少し考えれば解る事だろうと思える。
ではどうすればいいかというところで話は始めに戻る。こうして問題に
取り囲まれた時、何故か知らないがシステムによる解決を求める人を
よくよく目にする。だがそれは問題に対するよくない態度だと思われる。
何故ならそれでは経験を伝えられないからだ。想像が一個人の経験を
越え出る事がなくなる。それでは経験則は独我の檻を出られなくなる。
苦難に対処するために誰もが苦難に遭わなければならなくなるのなら
それは苦難に対処しているとは言えないだろう。倫理は金科玉条では
ないというのは正しいが、だからと言ってドグマティックにそんな誤りを
突付いても詮無い事だ。そんな態度は、むしろ倫理のボイコットである。
ところでpsycho78氏の言及部分だが、こっちはすでにそれに応えて
いると思う。具体的にひくと「おおもとの発言が嘘だと敢えて仮定して
差し上げる要などない」というところ。組織がなかろうとそれはそれだ。
僕が示しているのは「もうちょっと右だったらストライク!」というライン
だが、この場合はその発言が嘘でもそうでなくともどっちでもよくない。
*1:シットとガッデムを組み合わせた造語(ミヤタオリジナル)