マジック・ロジック・リリック=トリック

 さて。
 細々と色々あったようだが、状況はさして変わっていないと言えるだろう。
 というのは、それぞれの動き方を見ればほとんど変わりがないからである。

インスタント・インプリケイション

 ここでもいくつか扱ってきたが、何やら松永氏が社会正義を否定してたり
 あるいはその批判が絶対的正義を自称しているかのように受け取ったと
 見る向きがそれなりにいるようだが、さてそれは何を言っているのだろう。


 というのは、その言葉の内実がどういうものなのかが判然としないからだ。
 殊に「社会正義を否定」と言う時の「否定」とは具体的にいってどういった
 事態を意味するのだろうか。あるいはその否定されるという社会正義なる
 ものも一体「どの点で」「何故」「どのように」否定されたとされているのか。
 これらの点に関する具体的な説明はない。そうするとその言葉には納得
 なんてまず出来ないだろう。単にそういったもののイメージだけで繋がった
 気になる事は出来たとしてもそれはたまたまそのイメージを共有していた
 者達同士の言わば身内意識のようなものに寄りかかっているだけなので
 まず社会性の発露としては受け取る事が出来ないだろう。他の立場の者
 への説明とか理路の展開と言う事を想定している行動じゃあないからだ。
 
 
 勿論
 後づけでどうとでも言い直せる余地が残っているから批判とも言いがたい。


 また
 同じような事で「絶対的正義」なるものを振り回した向きもいろいろあった
 ようだが、これもその含意が慎重に見て取られていたのかどうか、怪しい。
 「絶対」というのは「対するものがない」事だ。あるいはもう少し踏み込んで
 言うなら「対しうる」ものがないと言う事を意味する。そうするとその発言は
 その発言者の「想定の限界」を含意している事になる。果たしてそいつに
 対しうるのかどうかを判断するのはひとりその発言者だけだ。従って、この
 発言をあまり滅多な事で振り回すのは「世界が狭い」と言う事になるだろう。
 勿論相手がそうであるなんていうように少しだけ仕込んだとしても同じ事だ。 
 その言及対象について絶対性が判断されるところが唯一問題になるからだ。

リップ・スリップ・バッドトリップ

 id:eshekさんへ - 倫敦橋の番外地
 http://d.hatena.ne.jp/eshek/20070127#p1


 ここで不思議なのは自分の発言がその対象から「すごすぎる憶測である」
 と言われているのに対し何も応えないままに「対話しましょうか」と言える
 神経である。その説明も謝罪も憤慨も何もなしでどう話が噛み合うのだろう。


 つまり

実際の人間の生活がかかってくることで「適当に」できるというのがわからない。
というか、自分の文章でなんでそんないいかげんなことを書けるのがわからない。
  http://d.hatena.ne.jp/eshek/20070127#p1

 この疑問について、単に「適当に」と言う語の意味をずらしても実際大した
 違いはないだろう。振る舞いが「テキトー」なのもすでに指摘されている事
 だからだ。同様にeshek氏の要望を「検証要請」だとは受け取らず、その
 原点を隠すか公表しておくかどうかと言う妙な二択しか示していない点も
 やはりただの論点ずらしだ。 eshek氏の主張のキモは次の点だろうから。

ご自分の言葉で、ご自分の責任においてなさるなら構いません。
http://d.hatena.ne.jp/eshek/comment?date=20070125#c

 そういう訳で、こう書いて来てもいた人への次の返答は対話とは呼べない。

結果的にblogでの考察が「トンデモ」になったとしたら、やはり原点
が「トンデモ」だからだったと、読者から検証されていくことでしょう。

 原点以外の部分を書いた人間なのにこう書くのなら実際「テキトー」だろう。


 なお
 念の為松永氏からの批判にも論点ずらしがされているので記録しておく。

プロパガンダならば、もう少し煽るようなことを、私は書くと思う。
たとえば「泉あいの変態サイト運営の黒幕は松永。収益の行方は教団の
裏口座」とか書いて、「出会い系サイトはどうやって稼いでいるのか」
を貼るとか。

 ポイントは松永氏の文章から次の問題が読み落されている事になるだろう。

ぜなら、不用意に憶測に基づいた疑惑を述べ立て、何らかの
策謀のごときものがあるかのような印象を植え付けるための
心証操作プロパガンダになっているため。

(もちろんそうは言っていないという逃げ道は作ってある)

フォ−カス・ザ・ボーガス

 で。
ロッキード裁判批判を斬る: 黒崎夜話


 この人の書く文を始めて少し面白いと感じたが、あんまりそう言うのも失礼
 に当たるのだろう。次に引用する部分を「面白いトリック」だと感じたからだ。

これを近いところで分かりやすく言えば、例えば名誉毀損というもの、つまりは
個人の「名誉権」というものが、何故ひとつの権利として認識され保護されるに
至ったかという歴史的な認識の視座に繋がる。言うまでもなくこれは、市民
社会の成立を前提としている。近代的人権の確立ですね。ここでも「私」という
ものと「公」というもののバランス、その差配が問題となってくる。市民社会
前提としなければ、そもそも「名誉」という概念は成り立たないのだった。


とすれば、
時には社会正義を蛇蝎の如く否定し、時には自らの名誉を社会的に主張しようと
する論の矛盾は明白にもなってゆく。そも「名誉」とは社会的な概念なのである。
 (改行は引用者j_m_w_tによる)

 何が面白いのかと言うと、ここで歴史と論理が「前提」と言う単語を接点として
 ごっちゃにされているところである。歴史的な成立過程と論理的な構成要素が
 混同されているのだ。歴史的に前提になっている事と論理的に前提にされて
 いる事とはちっとも同じ事ではない。ゼロの概念が発明された歴史上の過程は
 ゼロの概念を今日理解する際に別に必要ではない。数学史上で重要な事なら
 知っているが、それとこれとは別の話だ。ポイントは「前提とする」と言う言葉の
 意味が上の引用の空白行の部分で入れ替わっている事だ。「とすれば」とある
 ようにこの部分は前段を受ける書き方になっているのに。つまりトリックなのだ。
 

 勿論
 それが意図的なものなのかどうかはあまり問題ではないし、その前提と結論は
 それぞれ相応に正しい事ではある。それらを繋ぐ論理が全然正しくないだけだ。
 そしてそのトリックはむしろ当の社会的な概念とやらをきちんと理解する際には
 妨げとなるだろう。何故と言って少なくとも主権在民を謳う社会は個別の市民を
 「前提にする」からだ。ここで考えなければならないのはその先行関係ではなく
 権利上の関係である。その権利とは現実としてある権利だ。つまりどちらがより
 現実的で具体的なのかと言う事である。そして誰にとってもそれは自明の事だ。
 従って、社会が個人に先立つ点だけを考えていても社会は理解出来ないだろう。