ふりだして

 さて。
 BigBang氏と松永氏とが再度の接触を持つという辺りが相応に話題になっている
 ようだ。しかしそこで言われている事はどうにもおかしな具合にしか見えてこない。

会って話がつくという発想は私にもよくわかんないけどね。BB氏が提示していた
問題が終わって、だからBBが何もかも終わりというお墨付きを出すことになるみたい
な、訳の分からない受け取られ方がされてたかなあ?というのはある。BBもその
つもり、みたいな。状況が過度にそこからのフレームから受け取られていたというか。
 エレニ氏のコメント

 このコメントが象徴的だと思えるが、全く話が逆さまになっているようにしか思えない。
 というのも、この私的な会談で明らかにされうるのは私的な利害調整の能力だから
 である。そして公共性は個々の私人間の利害調整を含むので、公共性の代弁者は
 それら利害調整の能力に秀でているか多大な努力を支払う必要があるはずなのだ。


 従って
 私的な解決なんて役不足だとでもいうようなエレニ氏の言い分は随分異様なものに
 思える。話はむしろ逆であろう。その程度の能力か努力がなければ公共的な問題に
 対しては力不足だと言う事になるはずだ。さもなくば、公的な問題を私的な問題より
 優位におきながらその解決において重要な位置を占める資格を随分安く見積もって
 いるというご都合主義に陥るだろう。勿論、すでに幾人かは片足どころではなく足を
 突っ込んでしまっているだろうというところはあるが、ともあれ問題はこれからの事だ。
 

 そして

身の始末という言葉は、公的な場面においての決着という意味も
あると思ってるけどね。同じ公的空間を共有しているなら、言う
のが筋違いという事はないと考えてあの言葉を出したわけで。
まあどんな風な角度からでも見られるから難しいんだけど。
 エレニ氏のコメント

 ここにエレニ氏の勘違いは明らかだ。それは公共性を媒介にした私人間の距離に
 関する勘違いだ。同じ場所を共有しているという意味で口出しができるのは確かに
 そうだが、それはその私人として発言をする場合に限られる。逆に言うなら公共性
 という名義での代弁はその限りではない。喩えて言えば同じ国の中にいる人なら
 「原告」として発言する権利も機会もその保障もある。しかしそれを口実に裁判官
 めいた振る舞いをするのは行き過ぎだという事。具体的には、BigBang氏が懇談
 会について「自分の名誉に関わるから」という理由で松永氏に説明を求めるのなら
 よく解るし正当だとも思えるが、その点を述べないで公共性の問題だと言う言い方
 しかしないのなら、その資格が問われなければならなくなる。公共性を安易に振り
 回すようなのを許容する訳にはいかないからだ。ろくでもない裁判官は原告になる
 権利を事実上叩き壊せるからだ。だからその辺の事をどっちつかずなままに公共の
 問題を説くのはよくない。その上そこに自分の利害が関連していたのならさらに、だ。


 ともあれ

どうせ人でなしだよ。悪かったね。

 こんな事を一方で言いのけられる人が公共性について喋り、他人に付随する公共
 的な問題に口を挟んだとして、どれだけの利害が調整される見込みがあるというの
 だろうか。こういっただらしなさで公共性について軽口を叩いていいと思うのだろうか。
 どうもこの辺り公共性を軽く見ているか都合よく見ているようにしか思えないのだが
 それを問題と感じていないのだろうか。これより先に進むなら、ここの点がさらに深い
 問題の根となるのは目に見えていると思うが、何故そこを先に解決しないのだろうか。
 
 
 勿論
 そういってすぐに解決出来ないだろう事は解る。でも解ってない人もいるだろうから。