「青い風が今 胸のドアを叩いても」

 さて。
 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070119/p1


 このエントリは松永氏のエントリへの批判として書き始められた。その
 結果が批判として相応しいのかどうか、はともかくとして。しかしここで
 松永氏の批判を単に「絶対的正義への非難」だと考えるのは間違いだ。
 ましてや「社会正義への非難」だとする誤読はいい加減やめるべきだ。
 

 これは僕はこう思うということですが、十字軍もイスラム聖戦も
 絶対的社会正義だったよなあという感想を抱きました。(中略)
 たとえば十字軍に参加するにしても、キリスト教徒なら当然、では
 なく、これはどういう意味があり、またサラセン軍にもサラセン
 軍の正義があると認識した上で、それでもあえて自分は十字軍と
 しての生き方を選ぶ、というくらい考えてほしいなぁということ。
松永氏のコメント

 ここで社会正義は否定なんてされていない。むしろそこへと現実性と
 確実性を与えるようにと主張されているだけだ。人間なら誰しも絶対
 にこうすべきだというように社会が正義の形式を要請してきたとしても
 それに「考えもなく従う」とか「自分の判断もなく従う」とかいう態度は
 取りたくないと言うだけの話だ。そして同じ事でそういう態度で自分の
 判断を責任あるものにしていない人は「嫌い」だというだけの話だろう。
 自分の判断について責任を負うと言うのは近代的な自由のド基礎だ。


 この話が相対性と関わるのは前提として「社会から要請された正義」
 に対して個が十分な吟味と承認を与えた場合に限られる。その上で
 「当の個にとってのそれぞれの社会の価値」なんかを測る場合になら
 確かに相対性と関わる。「それぞれの社会をそれぞれの観点で測る」
 場合だから当然だ。しかし、松永氏のエントリではそもそもそういった
 「判断」「自分で考える事」「自己責任」「あえて自分で判断し直す事」
 というものが見られなかったという事が書かれているのである。逆に
 言って「当該管理人を自分は信じる」言えるならそれはそれで良いと
 言っているくらいだ。相対性以前に、問題点はその「自己のなさ」だ。


 従って

僕は価値の相対性を認識した上で、戦後民主主義に基づく諸々の
価値観を是とすることを選びとっている。それは現状の世間に
おいては支配的な態度であるから、主流的であるかも知れない。

 これが我が身可愛さの嘘入りでなければ、それなりに正確な読解だと
 言えるだろうが、重要なのはそこで「選び取っている」と言えるくらいに
 心理的な距離を保ち得ているのかと言う事だ。惰性なのか判断なのか
 という事だ。それは実際内心の問題だが、別に内心「だけ」の問題では
 ない。心は表に現れる。その表現と行動の問題だし、それについての
 判断が問題だ。つまり「何故選び取ったのか」こそが問題されている。
 さもなくば相対性の空漠に現実性を与える事が出来ないからだ。その
 空漠に呑まれた場合は、確かにアナーキーな事にも陥ってしまうだろう。 


 だが
 果たしてそれは誰に対して投げられるべき批判だろうか。理由より対象
 についてを問題にする者に対してである。何故なら選んだ理由ではなく
 選んだ対象を問題にすると言うのは、要するにその対象以外を選ばない
 思考停止だからだ。そしてその態度は吟味と判断を拒否しているもので
 あり、ひいては「選んだ理由」を他の立場に対して説明出来ない無能力
 に繋がるだろう。何故なら他の立場について全く顧慮しない事によって
 その立場を選んだからだ。あるいはもう少し正確に言えば選んだ「事に
 した」からだ。だからそれを選んだ積極的な理由の説明も出来なくなる。
 

 従って

あらゆることが相対化が可能であれば(実際それは可能なの
だが)、むしろ問われるのは何を選びとっているかということだ。

 このように唐突に言い始めるMr_Rancelot氏の方こそ相対性の空漠に
 片足を突っ込んでしまっている。何故なら選んだ理由を他人と共有する
 見込みを捨ててしまっているからだ。「あらゆる事の相対化」が可能だと
 言う事の意味も余り見て取られていない。それが「現実に」誰によって
 どういう場合に行われうるのかという条件を見定める事もなしに仮定を
 仮定のままに振り回している。明日核戦争がおきるかもしれないという
 「仮定」は、可能性としては正しいが、その可能性がどの程度あるのか
 という具体性を無視して喧伝するのはハタ迷惑なだけだ。可能性がある
 からと言って、具体性を度外視するこの態度が現実に現れ出ている事
 こそなんでもかんでも相対化してしまう事の悪弊ではないのだろうか。


 つまり
 ストレートに書けば例え仮定だからと言ってセンシティブな意味を持つ
 と解っている事を敢えて書くのは悪しき相対化だ。可能性によってそう
 なるかもしれないと「現実を相対化」しようとしている。そうやって現実に
 対する効果を見失うのは全く馬鹿げている。確認なんかしていなくとも
 誰かにとって重要な人が死んでいる「かもしれない」とかそいつ自身が
 気が狂っている「かもしれない」などと書くのは馬鹿げている。何故なら
 その可能性がそいつにとって非常に重要な意味を持つからだ。そこに
 について軽々しく問題にされる事がダメージになるからだ。それを暴力と
 感じざるを得ないからだ。そしてそんな事も解らないのは想像力不足だ。

 
 何故なら
 「撃たれると痛い」と言う事はおよそ誰も経験上知っている事だからだ。
 善意も悪意も関係なく、痛いものは痛いし、正当化もダメージを除去は
 出来ない。正当化はそこになけなしの意味を与えるだけだ。ましてや
 正当化ができる見込みも定かではない「可能性」の段階でダメージを
 与えていいはずがない。そういった無神経はむしろ非難すべきだろう。


◆おまけ
 そもそも「掣肘することがまったくなかった」としていた点がコメント欄での
 やり取りのさなか「暴力を食い止めることには何ら貢献しなかった」に
 変わっているところはポイントだろう。そこで意味がすり替わっている。
 しなかったのと出来なかったのとは別だし、後づけで「自発的には」と
 つけるのも話のすり替えだ。大体「まったくなかった」と言う全否定を
 使ったんだから後で限定的に直すのなら先に言うべき事があるだろう。