「無理しない」

「無理はなんだか、自分が自分でなくなるようでイヤなんだ」

 

シャーマンキング (7)
posted with amazlet on 07.01.06
武井 宏之
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 さて。
 この話の続きがBigBang氏のブログのコメント欄で続いているが、どうにも。

松永さんの言うようであるとすれば、あらゆる不正や犯罪
は「当事者」か「被害者」でなければ糾弾してはならない
ように読み取れてしまいますが、それはどうですか?
 BigBang氏のコメント

 というのは、このように言われる時にはそこに密やかな非難が混入している
 からである。この非難は、あるいはその混入はあんまり品の良くないものだ。
 何故ならここで自分とその非難対象との関係のなさが前提にされてしまって
 いるからである。そしてその前提である関係のなさを埋め合わせるのは一般
 性である。「誰でもがそうすべきだから」といった理屈だ。つまりはそこで自分
 自身がそう考えているからという言い方は、一般性に隠されて見えなくなる。
 

 しかし、一体誰がその「関係のなさ」を前提にし、さらに保持をし続けるのか。


 それが自分自身でなければ誰だろう。他の誰がその事に責任があるだろう。
 それが自分で決めた事でなければ何なのだろう。思い込み以外の何だろう。
 

 つまり
 現実的には誰しもが「当事者になる」事が出来るだけでなく「当事者である」
 事について反省する事が出来る。自分と対象がどういう意味で関係あるのか
 考える事が出来る。それを知る事は節度ある態度だ。それを知る事は対象に
 対し現実的に近づくための手段だ。それを知る事は相手への非難を確固たる
 ものに仕上げるための修練であり、精錬である。それは非難を精緻なものに
 するために必要な事だ。自分と相手との具体的な関係を踏まえない非難より
 自分と相手との具体的な関係に支持されるそれの方が明らかに強力だろう。
 

 例えば
 ここで言われるmixiの話についてだろうと自分と相手の関係がまず重要だ。
 例えば僕自身はmixiに何の興味もない。だから勿論mixiでものを書こうとは
 していないし、その意味でそこに荒らしが出たり乗っ取りが行われたとしても
 僕には何の関係もない。しかし僕でも松永氏のエントリを読むことなら出来る。
 それはそこで直ちに関係が生まれたと言う事だ。その位置でものをいう事は
 出来るし、そんな位置からより深い位置に移動する事も出来る。例えば松永
 氏に連絡を取って「より重要な当事者の位置」に移動する事が出来る。そう
 する自由は原則的には開かれている。だがすでに書いたように僕に興味は
 ない。mixiに興味がないからだ。そしてそのコミュニティの参加者たちがその
 乗っ取りに対して不服だと言う声をださないなら、そもそも、そのコミュニティ
 なんて守られる価値がなかったと言う事になってしまうのだろう。逆に言えば
 そういう場合は「乗っ取り」なら事実行われたとしても、別に問題にならない
 と言う事になるだろう。僕にはやはり関係なく、また興味もちっとも湧かない。


 しかし
 例えばそのコミュニティを守る責任がたまたまその時点で管理人だった者に
 押し付けられてしまうようなら、話が違ってくる。そういう問題がまだ起こって
 なかった時に管理人として名乗り出る事とそういう問題のさなか踏ん張って
 管理人であり続ける事は全然別の事だ。なのに、一旦管理人を引き受けて
 いたからといってその人にだけコミュニティを防衛する責任を押し付けようと
 するのは、何か言質を取って濫用するようなやり口に見える。誰にも想定は
 されていなかったコミュニティの問題なら、どうして一緒に守ろうともしないで
 例えば管理人への非難をしたりして現実的にはコミュニティの「乗っ取り」に
 手を貸してしまうのか。コミュニティの価値なんてのはそれに意味があると
 信じたり感じたり考えたりする現実的な人の動きに依存するはずだろうから、
 そういうようにちょっと問題が起こったくらいで問題の解決を人任せにしたり
 しているところにはそもそも価値があったのかどうか、疑わしくもなってくる。
  

 しかし
 逆に言えばコミュニティを守ろうとする人のいるところとか、その問題を広めて
 自分に手を貸して貰おうとするところには何か意味があるのだろうと言う気に
 ならなくもないし、例えばその乗っ取りに対する策を考えてみようと言う気にも
 なる。現実的には管理権限を分散すればいいだろう。大きなコミュニティなら
 そもそも一人では管理出来ないだろうからコミュニティから複数の管理権者を
 選べばいい。そうすれば管理人一人だけの判断ミスや心労でコミュニティが
 丸ごと乗っ取られる心配は減らせる。そういう意志反映の仕組みになら僕にも
 興味がある。こういう事なら僕に関係のない事ではなくなってくる。だからその
 問題にもなんか言ってみようかという気になるし、自分自身の分を踏み外さず
 発言する姿勢にもなってきているはずである。こうして、遠回りをしながら少し
 づつ当事者に近づく事なら出来なくはない。そしてそれこそ重要なプロセスだ。

 
 ともあれ
 一言で言うなら雨蛙氏の「関係のない私にも関係があるんだ」という台詞に
 なるだろう。その関係のなさを眺めつつ、か細い関係の確実さを地道に追う事。