FantasTYPO


 なぜ伝言ゲームは存続していると言えるのか。これは別にミステリーとして
 頻繁に問われたりしない。誰もがすぐ解るように、変わりつつ続く事こそが
 このゲームの醍醐味だからである。存続するのがむしろ当たり前なのである。


 従って
 個々のケースで問われ楽しまれるべき事は、言葉や文章の消滅や交代が
 何故起こったのかという事だろう。結末から差し戻して消滅と交代が起こった
 部分を何故他の人は間違えなかったかと言いあったりして楽しむべきだろう。


 つまり
 そこでは言葉の流れが新しく変更されたという事なのだろうけれども、それは
 言葉の流れが全く新しく創出されるという事とは全然別の事態であり、しかし
 それにも関わらず何かしらの単独性をそこに贈り与えているとも言えるのだ。


 単語や文章の交代による文意の変更もまた、当の改変者が聞いた文章に何
 らかの形で由来している。しかし、結末からはなかなか漸進的とは思えない
 ものだから、それを決定的な事が起こってしまったのだろうと楽しむのである。



 しかしながら
 ここの話でのそれはなかなか楽しめないものである。というのも、この話では
 そもそも松永氏の、松永氏個人の発言スタンスが俎上に上げられていたはず
 なのである。しかしそんな言葉はかなり捻じ曲げられて受け取られてしまって
 いる。その変更点はまず何よりも原文の意図を「主観的」だとする振る舞いに
 ある。念のため言っておけばその判断は正しい。しかし、それは論評としては
 的外れである。「自分はこう考える」という文に対して「それは主観である」と
 言ったところで論評にはならない。そもそも「そう宣言して」書いている訳だから
 その文意を読み落とさなければそんな事をあえて言う必要が出ないからである。
 

 その宣言は冒頭の文章を参照されれば解るはずである。以下に引用してみよう。

さて、今年最初の記事は、ジャーナリストとブロガーの違いについて述べ、
私自身はあくまでもウェブ上においてジャーナリスト志向ではなくブロガー
志向で書いていくことを、新年の抱負の代わりにまとめてみたいと思います。
 2007年のことのは/対極にあるジャーナリストとブロガー[絵文録ことのは]2007/01/01

 これを読んで松永氏のスタンスについての記事だと考えないのは、少なくとも
 僕などには非常に難しい。そう読まなければライターとブロガーの使い分けと
 いう段落に話が続かないし、オチとの意味の連結もおかしくなってくるからだ。

自分が正義だと主張するのではなく、自分の立場から言えばこうなる、こんな
ものが好きだ、こんなものが嫌いだ、こんなものを見聞きしたよ、ということを
表現していきたいというのが、このブログの方針であり、今後もその方向性は
変わらないだろうと思う。
 同上

 つまり、松永氏のエントリは頭から尻尾まで氏のスタンスを説明していると
 読むのが実際素直な読み方と言うものだろうと僕には思える。しかしそんな
 説明がどのように受け止められているのかというところになると、どうも妙だ。
 
 
 最も話がズレているのはここ。直前の松永氏のコメントが「観点がない」と
 言っているのに対し、このコメントの後半部分では「概念がない」という事に
 なっているからだ。BigBang氏もコメントの冒頭で正確に引用しているので
 おそらくはちょっとしたミスではあるのだろうが、少なくとも傍目にも明らかな
 誤りではある。そしてその誤り方はヒートアップと断絶を招いてしまっても
 仕方のないものだ。何故と言って「観点がない」のと「概念がない」のとは
 言っている事が全然違うからだ。前者は「そうしない」という意識の説明を
 しているのだが、後者ではそういう立場が世にある事自体を理解出来ない
 という恐るべき無能力と傲慢さを意味するとさえ言えてしまうだろうからだ。


 「社会正義の観点がない」と言う時の「ない」という言葉は「その立場には
 立たない」という「ない」である。しかし「社会正義の概念がない」という時
 には「全く存在しない」というごく強い否定を含むと読まざるを得なくなって
 くるのである。勿論「私の辞書には失敗と言う文字がない」と世の人らが
 軽く言うような雰囲気があればその強い否定も洒落っ気として楽しまれた
 だろうけれど、今回の場合はなかなかそうならないだろうから、問題だろう。

 ◆翌日追記:おっとっと
  アフィリエイトの貼り付けがおかしかったので修正。