生きる力について


 下のエントリで飛ばした「当人の納得」の条件に
ついて考えられる事として、まず、その生の自体性
という事がある。ある、といっても他の人がどんな
言い方をしているのかは知らない。が、それは置く。
そしてその生の自体性とは、そこに能力がある事と
当の生がそれ自身力であるというところに理論上は
分けられる。そして、その能力があるという事態は、
つまり「力を及ぼす」事が出来るという事態を指す。
ある力の及ぼし方を可能性として含みこむ事がその
当の能力を有するという事である。あるいは能力を
有する生と組み合う事である力の及ぼし方が可能に
なる場合に、その対象に能力があると言ったりする。
それは厳密には使用のシーンを想定して言われる事
であるが、ここではその程度に留め、踏み込まない。


 そして


 生がそれ自身力であるというところとは、つまり
当の生の構成がそれ自身動き出すという事態を指す。
これは間違えてはいけないが、その構成がそれ自身
「動かす」のではない。この力の自体性については、
ニーチェ主義者らしく雷電と電位差の関係を用いて
説明に変えるとしよう。雷電は電位差それ自身なの
であり、電位差「が」雷電を落とすという言い方は
「便宜的な仮構」である。雷電を落とそうか落とす
まいか決定出来る電位差なる主体はない。電位差は
それが当の程度の差異にまで到達しただけで雷電
発現させる。あるいは、より正確に言えば電位差が
雷電として発現する。その条件の成立がそのままで
無条件に力として発現し、展開し、消尽されてゆく。
生という力も、その発生条件がそのままで生として
発現して、そのままで消尽してゆく。そのそのまま
という性質が、自体性である。ここまでが前提の話。


 そして


 これらの事は「生きているのか否か」という判別
に一定の基準を与える。つまり、その自体性の決定
的で不可逆な毀損がある場合は、もう生きていると
「言うよりは」生かされているというような状態で
ある、という事になる。例えば麻薬がよくない理由
として、この自体性への毀損というものがありうる
だろうし、また、脳に電極を差すようなSF的発想
にあるおぞましさも、それ自身の構成を変化させて
生きているところの力を外部の操作の下に置く事に
なる。それは、その状態では「生かされている」と
いう事になるだろう。その生きているところの力の
発現に生それ自身ではなく「その他のもの」が必要
になるようにする。この事は、生存に食料が要ると
言うところとは区別されうる。食事は外部からくる
操作にはまずならないが、脳に刺された電極は違う。
麻薬の場合も「特定の薬物」に限定された必要性を
作り出してしまうところが操作的であり、当の生が
何であれ単に食料を求めるという事と同じではない。


 そして


 この自体性の毀損に際してならば、自死が尊厳の
あるものだと考えられる場合がある事になるだろう。
麻薬による毀損は回復が出来る事もあるのだろうが、
症例によっては生きているところの力が全く外部の
操作に依存しなければならなくなり、しかもそこで
自体性の回復の見込みがない場合もまたあるだろう。
そしてそれが話す事や書く事といった諸能力を発揮
させなくしてゆくという場合もあるだろう。そして
ここで話を倫理規準に短絡させるのだが、そうした
「不可逆的な」「自体性の毀損」が「能力の阻止」
に至る場合にならば、自死にも尊厳があるかと思う。


 勿論


 この不可逆性に関して主観的にも客観的にも把握
出来ないだろうという点があり、現実的には当人の
意志があった上の追認に留まるべきではあるだろう。




 ・・・という理屈は、ドゥルーズ自死を単なる
敗北だと位置づけないために考え出した理屈である。