尊厳死について

 2006-03-25


 chiki氏のところで紹介されていた研究会のレポ。
主に論者自身の言葉で書かれている部分に関連して。


 尊厳死について議論する事の効果として、まず、
「現場から苦悩を少しでも吸い上げる」という事
があるように思う。勿論そこで吸い上げうる苦悩
などその他現場にある苦悩に比べればわずかだと
いう事はあるだろうけれど、当の患者やその家族、
そして医療従事者に一から議論を組み立てさせる
というよりは、外部で議論のストックを準備する
事がほんの少しでも心理負担を軽減しうるだろう。


 そうすると、側面は「当人の納得」と「関係者
への免責」とに分けられるべきかと思われてくる。
ここで後者について言えば、家族と医療従事者が
自殺幇助に問われないだけのバックアップがない
限り、そもそも「尊厳死」を選択する事に非常に
高いコストがあるという事になってしまう。その
意味で言えば、つまりその「選択権」と引き換え
という意味で言えば「生きる事を肯定できる社会
が先決」というスローガンには疑問がなくもない。


 無論


 その「免責」が現実的に認められる条件に強制
に依らない当人の承認が不可欠というところには
当然という他はない。そしてそれが、例えば人を
慮った結果であるというところも出来うる限りで
排除する技術が要るというところもよく解る事だ。
その意味で言えば何らかのプロを養成する視点が
要るのではないかという気もするが、それは置く。


 しかし

 
 その技術の必要性と医療従事者らの負担軽減を
混同してはならないだろう。つまり、そのような
負担軽減が「あってはならない」といった議論や、
それを目的とした法制化を意志確認技術の必要性
という度を越えて問題視するのは、それはそれで
よくないのではないか。医療従事者に過大な心理
負担を与えるのではなく、社会的に負荷分散する
仕組みが、今後必要になるはずだろうからである。