で、その重要な事の例

 http://d.hatena.ne.jp/plummet/20060324/p3



 例の松永氏の問題を巡って、一般論では事に
当たれない、という理屈。しかし、生憎、この
理屈そのものが一般論であるというところには
どうやら気がついてはいないような感じがする。
というのは、この理屈自体、単に「傍目」から
見た限りならどこででも言われうる事だからだ。


 と、まあ、別に一般論についてはどうだって
いいところではあるが、重要なのは、その一般
論が「だれを」代表しているのかというところ
である。それが解っていれば一般論も有用だし、
それが解らなければ一般論でなくても邪魔だと
言う場合もある。そしてここでの論者の立場は
「世間的な理解の代弁」か、個人的な感想だと
されている。後者は問題ない。しかし前者には
問題がある。というのは、そこでは「世間」と
いうモノを媒介して「大して関係のない人」が
喋る機会と必要が生み出されているからである。


 それこそ個人的な事を言えば、松永氏本人に
対するイメージは余り良くない。それは多くの
人に対するイメージとそう変わらないが、まあ
悪いといえば悪いと言えなくない。だが殊更に
何かを言うだけの積極的な動機はそれほどには
見当たらない。無論論者もそれはそうだろうと
いうところは解る。だが重要なのは、無関係な
世間にはそもそも発言の必要なんてないという
ところだ。本当に無関係なら。つまり、発言の
きっかけと筋道について整理されていないのは
よろしくない。この点については「共存」とか
言う向きも全然解らん。実際に会う人は別だが。


 勿論



 テロに関する警戒の一環として「注意する」
ところまでは当然だろうけれど、どの程度まで
主導部の悪意が共有されていたのかが解らない
以上は警戒でも凝視でもなく注意くらいが関の
山なんではなかろうか。もし末端にまで邪悪な
意志があるというのなら話はもっと大きくなる
必要があるはずだが、そういう訳でもどうやら
ない。もしくはネットの馴れ合い気味の空気に
あてられたり寛容の題目に平伏したりして注意
する事も忘れてしまうのもヤバいのはヤバいが、
オウム一般に関する話に「していない」以上は
松永氏に関するアレコレか、単なる一般論かの
どっちかしかなくなるのではないんではないか。

 
 で、氏個人に関する話はここでは省略しとく。