存在to無

 「「納得」「誇り」なんだッ!」
 荒木飛呂彦先生「スティール・ボール・ラン」より、ジャイロ・ツェペリ

Steel ball run (Vol.4)
posted with amazlet on 06.12.11
荒木 飛呂彦
集英社
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 自分自身を無意味だと心底確信してしまっている人間ほど危険なものはない。
 何故ならそこでは、何をなしてもどうであろうと、許された事になるからである。
 自分の存在を重要でないと信じたのならばそんなものは無意味になるからだ。


 そして
 意識の上で自分を無意味だと考えようとしてしまっている人間には本能的な
 狡知がある事になるだろう。その事と分を知る事とは確実に少しばかり違う。


 従って
 自らのその分を知る事には確実で決定的な自愛がある事にならねばならない。
 それは世界に意味がなければならないからでありその生成が無垢であるなら
 世界に比すれば無意味にも見える卑小なものにもただ確実な意味がある事に
 なるからである。その確実性が重要である。もう少しだけ言うと重要でありうる
 事はただその確実性に支持されているものだけなのだ。そしてその確実性を
 見て取ったなら、世界と個と言うモデルの比較自体にそれほど意味がない事
 にも気が付くだろう。何故ならそのモデルが前提としている考えは世界からも
 独立自存しうる個体、と言う考えだからだ。そこには前提的な傲慢がある事に
 なるだろう。つまりそんなモデルを援用しながら個の無意味さを言ってみても
 その実に言えているのはどういう事なのか、と言う事になってしまうのである。

 
 ところで
 この転載された文章だが、これはどうも不潔なものに思えてならない。あまり
 言うべきではないが、吐き気がする。何故ならそれは対象についてはその実
 論じていないからだ。そうではなくて、ただ対象を環境のネガとしてのみ位置
 づけている。そしてそういった対象の読み解き方が本質的に対象の権利上の
 独立を辱めるものであり、端的に言うと「ひとり」などとは程遠く「する」だろう。
 言葉の上で「ひとり」になる事を勧めていつつ、その実何を言えているだろう。