ドロー・ザ・ライン

 
 さて。
 少し風向きが変わってきているというべきだろう。示唆的なのは以下のエントリだ。


 BigBangは100%黒。それが僕の結論。判断は各自で。
 
 
 ここで問題にされているものはBigBang氏個人である。特にここではブックマークの
仕組みを悪用して自分のエントリの人気を演出してしまっているのではないか、という
疑いがかけられているが、この疑惑自体はどうでもいいものであり、愚問でしかない。
従って、そこのところはこのエントリの本題にはならない。しかしながら、この下らない
話の余波は示唆的なものだ。それが、松永氏関連の話を説明するのに役立つからだ。
従って、本来は本題ではない「BigBang氏の疑惑」についてまずは見てゆく事にする。


 しかし
 まず考えなければならないのは、その疑惑というものに、何か意味があるのかどうか
である。あるいは何故意味があるのかという事である。というのは、hannkakueisuu
氏の説明が十分なものではないからである。氏の説明は氏自身の行動と食い違って
いる。氏の説明によれば当の疑惑の問題は「読まれるほどの価値などないエントリの
人気演出にはてなブックマークが悪用されている」事である。以下の引用文の通りだ。

本来ならば誰からもはてブされなかったようなゴミ
エントリーの数々を、はてなブックマークの注目
記事RSSに乗せ、それを面白がっているのではないか
僕の身にあらぬ疑惑がかけられているようなので、釈明しておきます。

 
 
 つまり
 ここでは「当該エントリは読まれるほどの価値を持たない」という価値判断が前提に
されている。さもなくば、問題は大した事ではなくなるからだ。読まれるべきエントリに
そういった仕掛けが施されていたところで、大した問題ではない。あるいはそうじゃあ
ないという人もいるかもしれない。だが次の事は明らかである。それはその価値判断
によって問題の程度が大きく変わりうるという事だ。そして、とりわけhankakueisuu
氏自身が当該エントリを読まれるほどのものではないと実際に考えているという事だ。


 さらに
 当の疑惑追求に対して取られた手段は全く適切なものではない。これは以下の通り。

重ねて言うけれど、証拠的には全て状況証拠。
先日の疑惑を指摘した段階では6対4で黒かなという印象だった。
この先は証明しろと言われてもはてなの中の人にしかわからないので不可能。


 つまり
 証明不能な問いかけだと解っていながら、あえてその方法を選んだ事になっている。


 しかも
 問題の規模は結局のところ曖昧なままただ追求の意志ばかりが一人歩きしている。


 何故なら
 当該エントリには価値がない、という証明なり説明が難しいはずなどないからである。
それが難しくないからこそ他人のエントリに対しゴミエントリだとまで言っていたはずだ。
その上でその説明が難しいといわれようとも僕は信じないし多くの人も信じないだろう。
であれば最初からその説明だけで実質的な問題の解消には事足りたはずではないか。
読まれるほどのエントリじゃあない、と反論によって明らかにすれば済んだはずである。



 従って
 氏の問いかけは混乱している。それは問題を正確に整理して捉えたものではない。
それは結果的には証明の不可能性を盾にして単なる感触を広めようとする事にしか
なっておらずどちらかというと操作の類に近いものになっている。そしてその結果どう
なっただろうか。100パーセント黒だという個人的な呟きは一体何をもたらしたのか。


 それは
 分裂したこの状況を強調する事に落ち着いた。それはこの状況をより露骨にした。
それはこの状況に各人が抱いているイメージがいかにかけ離れたものなのかという
事を知らしめる結果に落ち着いた。それは各人の違いに強く縁取りを施した。そこで
各人の動きは今までよりも見やすいものになってきている。事の本質はそのままに
事の程度は大袈裟に。あるいはむしろ露骨で粗野であからさまにもなってきている。


 それをもたらしたものは問題を回収する仕草である。公器にまつわる問題を立てて
おきながら、それを結局のところ個人的な呟きの次元に引き摺り下ろすその矮小化
によってである。問題を立てて人々に広めばら撒きエサを散らしておきながら、結局
それをその内心に隠して済ませてしまおうとする仕草によって、だ。撒かれたものに
呼ばれて近づく者たちもその内心にまで踏み入り込んでは行けないからだ。そこで
全ては一人で呟く事のレベルに制限される。その内心を吐露するだけしか出来なく
なる。だからそこでは、誰もが自分を明らかにする事へと結局帰着する。だからそこ
では誰もが少し自分の事を気にし過ぎる。だからそこでは事の程度は大袈裟になる。


 とりわけそれは疑惑を持たれたBigBang氏に顕著な事だ。対象エントリたちへの
hankakueisuu氏の評価が結局主観的なものだというその仕草にこそ顕著な事だ。
それは事態を正しく捉えた言葉ではない。何故ならそこで。当該ブックマーク自体は
全く事実に他ならないからだ。それは主観性のあやふやさなどとは全く関係がない。
ただその事実については勿論どうとなりとも解釈しようがあるのだろうが、問題点は
そこではなかった。問題点はむしろ事実に関わっていた。それでもそこでは自他の
違いが強調された。互いの違いが露骨にされた。そうして少し、あからさまにもなり
出した。そう意図されたかどうかは結局どうでもいいが、結果的にはそうなってきた。


 従って
 ここで問題は結局のところ解消に向かっていない。ただ大袈裟に変わっただけだ。


 そして
 この事は一つの戯画になる。ここでしばらく扱ってきた、松永氏絡みのあの顛末を
うまく示唆する戯画になる。だが問題はその戯画ではない。その戯画が何故出来て
くるのかという事である。その戯画がどこから出てきてくるのかという事である。端的
に言えば各人の抱くイメージから各々戯画が出てくる。そしてそれが出てきうるのは
ばら撒かれた問題が唐突に不可侵の内心へと引っ込められたからだ。公器に関する
問題が立てられたならば人の目は集まる。そして問題が結局個人的な呟きのレベル
にまで矮小化されればもはやそこでは掛ける言葉が見当たらなくなる。人目の集中。
そして気まずい沈黙へ。その沈黙がその気まずさが誰も彼もに自分の事を喋らせる。
だからここから、戯画が生まれる。その気まずさを埋め合わせてゆく戯画が生まれる。
だからここではあの顛末の戯画が生まれる。事態を結局、どう考えているのかという
事に応じた戯画が生まれる。個々別々の戯画が生まれる。重要なのはそこから何が
探しうるかという事だ。大袈裟になり露骨になった事の次第が、一体何へと繋がるか
という事である。個別に描いた戯画そのものはどうでもいい。何故ならそれさえやはり
単なる呟きでしかないからだ。個々別々の内心にある事態のイメージ。それだけだ。



 だからそこでは糸口こそが探し出されるべきである。個々別々の内心をこれから
何かで繋ぎ始める糸口こそが探し出されるべきである。何故ならやはりまだ問題が
解消した訳じゃあないからだ。それは結局まだ大袈裟に変わっただけだ。どちらか
と言えば良くなったともとても言えない。何故ならそこでは事の正しい認識と、そこ
から問題解消へ向かう意志とが欠けてるからだ。それこそ探し出されるべきである。