スミス

 「・・・神様・・・ッ!」
 「いや、スミスで十分だ」
 (「マトリックス・リローデッド」より、エージェント・スミス

マトリックス リローデッド(UMD Video)
ワーナー・ホーム・ビデオ (2006/07/21)



 身の回りにミステリーがある。およそ簡単に発見できるはずの間違いについて
何故か誰一人として指摘をしていなかったりするところである。勿論、その誤りを
含むエントリが余り読まれていないと言う事もないし、読んでいる人たちが著しく 
議論に弱いという事もないはずなのだが何故か最も簡単な批判がなされてない。


 具体的には

民主主義は至上の理想ではない。大衆がすべて賢者に
レベルアップしない限り、民主主義・多数決は衆愚である。

とか書くと、俺を「大衆蔑視者」「選民思想
呼ばわりする大衆至上主義者が来るんだよな。
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20060928#1159408560

 という松永氏のエントリ。すでに結構な人らが色々議論しているはずなのだが
どうもその辺が妙だ。何やら意図を深読みしたりするのは結構なのだが、その
結果としてこうまではっきりしている間違いを忘れ去ってしまうのは全く謎である。
ここには二重の全否定がある。どうも松永氏本人は「wikiの話」に限定しており
その上では全否定はしていないと言いたいようだがこの要約部はそう読めない。


 というのは
 まずここで言われている事が単純な多数決の意味さえ見失ってしまうと言う事
がある。それは当の意思決定に関わる「全て」の人にレベルアップが要請される
ところからはそう読まなければならなくなる。現実的に言うなら多数決なのだから
概ね多数が相応に賢ければ十分問題ない程の機能は得られるはずだ。つまり
その点を吟味せずに多数決を衆愚だと呼ぶのなら、それは単にありうる多数決を
残らず衆愚だと呼ぶ事になってしまうだろう。勿論多数決が本来有効に機能する
場面を吟味せずにそんな呼び方をしてしまっているのだから、これは全然有効な
議論にはならない。ともあれここにはまず一つ目の全否定を見る他はないだろう。


 そして
 二つ目の全否定も示されなければならない。それは要請されている知性向上
が恒常的なものでなければならないように言われているところである。その上で
その恒常性を得られなければ駄目だと言うのだから要するに要不要の事情には
関わらない、と言う事になる。こう言うだけではあまり事態を想像しにくいのかも
しれないが、ポイントは要不要の事情というものが知の専門性を成り立たせると
言う事である。様々な状況から切り出されていってそれに特化したのが専門知
である。それは勿論、社会に散らばりゆるやかに維持されゆるやかに変化して
いるものだが、特に社会一般に共有されているというものでもないだろう。勿論
社会的なレベルでの要不要と言う事情に即してそれら専門知の社会での位置
付けは変わる。それは賢者による不断の治世などではないものだが知の分業
によって「社会全体の」知性を組み替えうる余力を生む事になる。そこでは恒常
的な賢者化なんて必要ない。必要になるのは専門家とそれを支える常識である。


 つまり
 松永氏の第二の全否定は「万能人」を求めていると言う点にある。ルネサンス
時代のダ・ヴィンチだとかライプニッツとかをイメージすると解りいいのだろうか。
そしてそんな「万能人」に「社会の全員が」なれないと衆愚だと言ってしまって
いるのだから、これはかなり偏狭な考え方だと見なければならなくもなってくる。


 つまり
 現実的に言うなら「概ね多くの大衆が場合によっては賢者にもなりうる」事が
衆愚化を免れる条件だろう。「全員が」「不断に」「全分野に」精通している必要
などない。必要なのは専門知を社会で維持する仕組みであり、その腐敗を監視
する常識の目である。勿論、これ自体問題のある方策だと言うのは解っている。
常識は権力において専門家に優越しなければならないが、正当性に至ると言う
権利において専門家などより遥かに劣っている。このバランスは不断の問題だ。


 と言う訳で
 少なくとも「要するに」と題された段落がこういった次第なのであれば、それは
そのような問題だと読まれても仕方ないだろう。wikiの話に本意があったのなら
少なくとも大風呂敷を広げすぎた事くらいは認めていなければならない事になる。