想像上の復讐及びその共同体

 どうも松永氏の話で冷静な議論をすぐに投げ出す向きがいるのだが、そういった
やり方はやはり間違いだろう。何らかの事について「間違っている」と言われた時
すぐさま自分の傷を晒さなければならないようなやり方は、結局のところ、そうした
傷の幻想を共有しなければならないやり方だ。それは正義では決してないだろうし
勿論友愛などでも全然ない。特にそれを「見せなければならない」かのように行動
する辺りはとても危うい。そういう私的な理由を「引き摺っている」のなら公共性の
領分には届いていないという事になる。「公共性に憑依される」というのなら、その
私的な傷など出てくるはずがないからだ。勿論公的な立場を持つ者に対し私的な
傷を見せる類のアプローチは意味ある事だし、それを受け止める事が公的な立場
にいる意味であろうとも思えるが、その事と「公私混同」とは全然別の話であろう。