とめるつもり/やめるつもり

 そして - 売文日誌

 さしあたり一日待ってみたが特に追加も弁解も見えないので、その
まま批判に移行する事にする。先日引用した極東ブログのエントリは
全くの印象操作であって、問題の大きさから考えて到底許容出来ない。

ちょっと物騒な発言だが、ジャーナリスト、プロの水準
というのは法を破ってもいいと考えている。それだけの
痛みを当然覚悟するだけの仕事だと考えている。

 問題なのはこの部分である。これは明らかに放言の域であり、問題
だといわなければならないものである。これは例外を振り回している。
「一般的には禁止されている事でも例外的には許容される場合がある」
という話はいくつかある。例えば正当防衛であり、あるいは尊厳死だ。
どちらもある種の暴力が免罪される条件を指示する事で成り立つ考え
である。その条件こそがそれらの肝要な点である。例で考えてみよう。

老人は殺してもよい

 こんなものは当然暴言である。一般的にいって老人を殺していいと
言ってしまっている事になるからである。だが条件次第では話は別だ。

回復の見込みがなく、生存の苦痛も極めて大きく、そして
当人の自発的な合意があった場合には尊厳死は許容される

 これならば相応には説得力があるとみなされる。勿論尊厳死の是非
についてやその条件について議論はある。この条件も便宜的ではある。
しかし、その事もすでに「条件」が重要であると示唆する事実である。
重要なのはそのような「例外」があるかどうかではなく、それを具体
的に記述する事である。その内実を解き明かす事であり、説明である。
つまり、この文脈に即して言えば、ジャーナリストが法を犯していい
「条件」である。それがなければ理屈の上では何も言えていないのに、
そのような「印象」だけを与える事になってしまう。その結果が問題
である。それが公共性を十分備えた問題の俎上で使われていいものか。
よもやジャーナリストであるかどうかが条件であるという訳でもない
だろうに。ましてやジャーナリズムの野放図を許容する訳もないはず。
そしてその発言が与えた印象について氏はどう思っているのだろうか。


 そして


 この発言が松永氏界隈とは関係ないと判断しうる予防線は全くなく、
しかし「オウム」「ブロガーの影響」「ジャーナリズム」という示唆
だけはある。これを読んでそう判断しない方が難しい。そう判断する
向きが出る事は当然配慮すべき事柄に含まれるだろう。確定的でない
という事と「推測もされない」という事とは別の事であり、印象操作
はその推測を意図するのであるから、確定的な書き方がされていない
という事は非難を停止させる条件にはならない。勿論印象操作が不正
ではない場合は別だが、ネットで印象操作を不正だとは考えない人は
見た事がない。逆なら山ほどある。つまり、これは非難されるべきだ。
肩を持つ事にしたのならケツまで持つ事にすべきではないのだろうか。


 やんわりとめる気配も示した相手はやめるつもりもないようだけど。