ブログジャーナリズムについて

 泉氏の言っているようなものは、単に「発表」の場としてブログを利用する
事によって、記事の示す事実に関する評価をより独占的じゃあない状態にする
という辺りだろうかと思う。だが、このよく解らないネーミングから考えるに、
そんなものよりも遥かに邪悪なバージョンと言うものも考えられるかと思える。


 それは

 
 当の取材の過程さえブログ上で行う、と言うものである。トラックバック
使うならまだいい。コメントでアレコレと疑念を追及するという事もないとは
言えない。取材対象が勤務先などから出てくるところを待ち伏せして直撃取材
などを試みるかのように、コメント欄に質問を直撃させて置いておくという事
である。それが取材の過程を衆目に晒す事であり、人々からの目を受ける事だ。


 ・・・だが


 こんな考えはどういう結末を想定しているものだろうか。というのは、今の
ネットの環境を考えてそんなものがうまく機能するとどうすれば思えるのかが
全然解らないからだ。ネットでは人はネットの外よりもさらに「勝手に考えて」
発言する。これはごく当然の事だ。特に問題が大きくならなければ実名を追跡
されると言う事はなく、勿論一人じゃあなく何人もの数を装う事だって出来る。
そして、事件が相応に大きくとも当事者のレベルに昇格しない限りは好き放題
言いたがる向きはいくらでもいる。エイベックスの件でもそうだった。それは
勿論そういう発言者個々の問題である。その発言者たちが自制すべきだという
事は、実際至極当然ではある。だがその事が別に煽動を免罪する訳じゃあない。
疑惑をばら撒いて他人を動かして行けば問題は大きくなる。見えていたものも
見えにくくなって当然である。あるいはその過程をどうにかこうにか潜り抜け
相応の結末に辿り着いたとしても、それが予期されたものだと「予め示されて」
いたのでなければ、単なるまぐれ以外の評価は相当ではない。他人を追及する
方法として問題が拡散して当然の方法を敢えて選択したのだから、当然の事だ。
勿論、示された意図の他に重大な意図が隠されていないとも限らないが、そう
だったとしても何も問題は解消しない。そんなものは、文字通りの「隠された
はかりごと」なのであって、褒められたものなどではとてもないはずだからだ。


 ネットでは問題が拡散してしまうという事は、当然に予測すべき事であろう。
そして拡散させたものと収拾するものとが同じ人とは限らないのも当然である。
それはその「物語」の正当性ではなく、手段の正当性を大きく損なう事になる。


 ◆関連エントリ:はぐれ貴族大衆派 - 売文日誌