カルト、オカルト、そしてデカルト

 滝本弁護士へインタビュー: Grip Blog <Archives>


 泉氏による松永氏周辺インタビュー第二段。今度の相手は滝本弁護士である。
今度の話はアレフなどに向かう態度の指針ともなる情報に満ち溢れているので、
単に有意義であるだけでなく「実用的」なものだと言って良いのかもしれない。


 しかし


 前回のインタビューと比較したとき、決して細かいとは言えない点に疑問が
出てきてしまうので、ここではそこに突っ込みをしておこうと思う。その疑問
の中でも最も大きなものは、滝本弁護士が「心理分析を省略してしまっている」
と言う事である。ちょうどインタビューの中頃で泉氏が「現実感覚がなくなる」
と言う事の原因を聞いているシーンがある。これに対する返答がやや妙である。

それよりも、要するに、精神科医に言わせれば、現実感覚を
失う解離性障害みたいな現象の問題なんです。 (中略)
オウムの信者さんらは、軽い解離になっていると思います。

 確認して見ればすぐ解るが、泉氏は「原因」を聞いている。だがこの回答は
それにつく「名前」を答えただけだ。勿論心理の話であるから単純にひとつの
「原因」があると言うよりはむしろそうなってゆく「過程」があると言う方が
相応しいのではあるのだろうが、それにしても滝本氏は「薬物」と「修行」と
いうだけになってしまっている。単純に言えば、これは回答にはなっていない。
単純にLSDの話であればもう「観想」なんて介在しない事になるし、質問は
その観想に関わる「修行などの内実」を尋ねている。それはどんな修行なのか?
勿論、前回のインタビューに呆れられたとの事もあって、単に省略したという
事もありうるとは思えるが、参考書を示すくらいしても害はないのではないか。


 次に


 これも決して小さい事とは思えないのだが、滝本氏は前回のインタビューを
踏まえているとは読めない発言をしてしまっている。ポアに関する説明である。

オウムの設定では、麻原彰晃の魂はどの世界でも行けるんだ、という
こと。(中略)だから、現世で彼の思う時にポアしてあげる、殺して
あげることはいいことだという論理にオウムはなってるわけです。

 と、滝本弁護士は言うが、前回松永氏が発言した以下の内容と噛み合わない。

あまりにも高度で、神々の世界の法則であって、人間の世界の法則
ではないとされているんですよ。「じゃあ、五仏の法則を今日から
やりましょう」ってことになったら、教団の中でみんなおかしく
なりますから。だからそういうことをやるヤツは逆にバカだと。
松永英明さんへインタビュー ①: Grip Blog <Archives>

 勿論、滝本氏は松永氏を「嘘をつくのがワークだった人」と称しているので、
この説明さえそうであると言う解釈をしていたとしてもそれ自体は不自然では
ないのだろうが、だからと言って読者にとっても不自然じゃあない訳ではない。
あるいは滝本氏は仏教学者に関して「言葉/実感」を区分しているので、そう
言った理路で「やはり松永氏は麻原被告を観想している」と言う見方も当然に
予想は出来る。だが答えは出ない。ていうか一言触れれば済む事じゃあないか。
そしてこの事が要らん揶揄よりも遥かに有意義なのはごく明らかな事のはずだ。


 そして


 滝本氏の使う「カルト」と言う用語はいささか濫用気味だと思えてならない。

宗教団体もカルトもそうでしょうけど、
教義というのは後でついてくるんです。

オウムは破壊的カルトだけど、同時に
宗教ですから、全然不思議じゃない。

 この二つの発言が濫用気味に思えるのだが、違和感があるのは「宗教」との
距離感である。この二つの言い方では、どちらもはっきりと区別しうるほどの
断絶でもあるように読めてしまう。前者ならばまだ「カルトは宗教に含まれる」
とも読めるが、後者はまるで「宗教に含まれないカルト」でもあるかのようだ。
だがwikipediaでも書かれているように、宗教と無縁なカルトというのは俗語の
領分にしかないように思う。カルトは皆ある程度は宗教的なのではなかろうか。


 最後に


 滝本氏が「観想」に着目される事は十分意義ある事だと思えるが、それなら
松永氏が「テロの意図」と「宗教的動機」との連続に疑問を持っている事には
何か触れておく必要があるのではないか。これはテロと宗教の主従の話である。

純粋に宗教的なもので来てるのかどうかというと、例えばサリン
事件にしても、あれは強制捜査を遅らせるためだという説明に
なってますよね。となると、そこに宗教性はないですよね。
松永英明さんへインタビュー ①: Grip Blog <Archives>

 この松永氏の発言は、サリンに関する偽情報が教団内部「にも」流されたと
言う「言い分」にもリンクしている事だと思えるが、これはどうなのだろうか。
「もし」「その言い分が真正であるとすれば」テロ目的の上層部の意図を隠す
蓑として宗教が「利用されていた」という事になり、おのずと「観想」をどう
評価するかと言うところにも変更がなされなければならなくなる。勿論末端の
信者らが隙だらけでは駄目だと言う意味で「観想がよろしくない」という程度
には言えるだろうが、しかし「直接的な危険」なのかどうか。その「仮定」の
上ではヤバいのは「上層部のテロ目的」であって、それを知る事もなく信仰を
媒介に手足になっていた人にはその「弁別」こそ重要になるのではなかろうか。


◆関連エントリ:焼き栗拾い - 売文日誌