議論において相手を特定する事

 2006-05-04


 「ニート」と言う概念の用法を批判しているらしい後藤氏のやり方を問題
にしているエントリ。そこで問題にされているのは「格下の論客を特定する」
と言うやり方である。実名がどうのと言う事は言われているが、別に仮名で
あっても同じロジックでの批判は出来るだろうから特定仮名と言い変えよう。

 
 さて。


 ここで実際にはその後藤氏の発言がどこにあるのか指示されていないので、
問題にされている「レベルの低さ」がどういうものなのかが解らないのだが、
これは実際論をよく解らなくするのではないか。というのは、単に後藤氏が
そういう素振りをしてみせただけで、実際は後藤氏の批判対象の方が一枚も
二枚も上手だったりする事はありうるからだ。その場合、後藤氏の粋がった
振る舞いは単に空振りに終わるのだが、このエントリからはどうなのかよく
解らない。そしてさらに、ここで後藤氏もその「特定」をしていなかったら
どうなったのだろうか。このエントリの読者は勿論、後藤氏も自分の空振り
について「知らないまま」になってしまうと言う事もありえてしまうのでは
ないか。そしてそれにも関わらず粋がって見せている訳で、結構恥ずかしい
事に陥ってしまうように思える。勿論これらはどこからどう見ても相手方が
格下であると言う事への疑いなんて粉微塵も出てこないしその気配さえない
というような場合には全く杞憂と言う事にはなるのだろうが、そんな場合が
そうそうあるものだろうか。ある程度の慎重さがあれば、相手が上手である
場合と言うものは想定するだろうし、そうすべきじゃあないのかと思われる。


 つまり、自分はそう思っていても「本当に」対話に値しないのかどうかと
いうところに留保をつけるなら、何はともあれ「特定」する必要があるかと
いう気がする。それは勿論、言及対象をぼやかす事が無用な困惑を生むから
でもある。この困惑のパターンは実際いくつもある。まず「実は自分が言及
されているのではないか」という疑念。勿論その裏には「そうではないかも
知れない」という疑念がある。次に「ここのところを誤解されているのでは
ないか」と言う疑念。その裏には「むしろここをこう考えて貰えればそっち
こそ間違っていると言う事になるのではないか」と言う疑念があるが、その
確信には至らない。さらに「相手に確認していいのかどうか」という疑念も
ありうる。ここの裏には「相手は言及しようとしてはいないのにこっちから
敢えて挑みにいくのはよくないのではないか」と言う遠慮が出てきたりする。
勿論こういった事にまるで考えを及ぼさずに突っ込んでくる(僕のように)
好戦的な人であれば困惑など無用ではあるのだろうけれど、それは逆に言う
なら「人のいい人ほど困る」と言う事になってしまっているのではないかと
思える。それはあんまりよろしくないのではないか。どちらかと言うと好戦
的な人間ほど困惑して当然と言ったルールの方が好ましいと言うところには
異論がないようにも思われる。具体的にそれはどんなルールかと言われても
ちょっと急には思いつかないが、少なくとも、格下だと思ったのならそこで
言及をしないという事の方が「どちらかと言えば」いいだろうとは言えるの
ではないか。ただ、ここにも「そう思ったのなら」という曖昧な部分がある
ため、要するに「相手を過信しすぎる性質」の人という問題は残っているし、
また、どんなに「格下」でもヤバい事を引き起こせると言う問題は残るけど。