「持続と同時性」
ベルクソンの本なんだが、amazletで全集三巻が出ないので、代わりにコレ。
ドゥルーズが作ったベルクソンの抜粋集。読みやすいので入門にもいいかと。
形と実態と言う事について、卑近な話をするけれど哲学的でない事もない。
ここで引くのは主に松永氏の届けに関するところ。それを出せば形になると
言われているのだが、果たしてそうなんだろうか。というのも、ここでいう
「形」なるものが実質的にはほとんど不定形なほど限定されていないという
事があり、また、その形も注意されるべき内実から割りに離れているからだ。
まず
その「形」が注意されるべき内実から離れているだろうというところだが、
これは二段階ある。一つ目。教団が現アレフへと「形を変えて」存続する事
そのものは禁止されているとまでは言えないレベルである。捜査が入ったり
して注意されているとは言えるが「形としては」禁止されてはいないと言う
べきだろう。二つ目。その当のアレフの「教団と言う形」が注意対象になる
と言うところはやむをえないとしても、そこで重要なのはそれが信仰心の形
ならば指示しても手続きの形を指示しているとはいいにくいという事である。
隠れキリシタンなんて単語を思い浮かべるだけでも宗教のディープなところ
ではそう考えられるべきだと納得できるのではないか。つまり、ここで形を
見たとしても二段階の媒介があり、注意対象であるかどうかを決定する因子
から「届け」が離れていると見る事が出来る。そして、この限定を前提した
としても、届けを出すに越した事がないと言うのはその通りではあるだろう。
しかし
それがその程度であるところは注意されるべきだろう。つまり、そうした
「それほど決定的とは言えない」レベルのところで急かすほどの事があるか
どうかという事である。自己申告では入院間近だと言う話にさせられている。
そして
すでに一段目の形式を見るだけでも、単に信者である事そのものだけでは
問題として「形にならない」事は見て取れるだろう。この事は事件の風化と
何の関わりもない事だ。問題として形になるのは、それこそ政党との懇談会
との関わりなどになるのだろうが、それもまたすぐあるとか呼ばれていると
いう話でもなければまだ「形になっていない」話というのが関の山であろう。
つまり
「形」を問題にするのなら、それが「形になる」話に限定すべきであろう。