「だから私は逃げ出さなかった 誰でもない自分から」

 「渦巻く空が呼んでいるの 何より大きな声で」

  鬼束ちひろ 「嵐が丘」 Beautiful Fighter


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 R30氏のエントリ。この前の劇団の話もそうだが、氏の個人的な
体験から来ている言葉という意味で貴重なエントリだし、書かれて
いる内容にも重要な点があると思える。だが、ここでは関連するようで
関連しないような書き方をする。何故そうするかは置く。書く内容は
ツァラトゥストラ」について。知っている人は知っているだろうが
ツァラトゥストラ」は「万人に与える書、そして誰にも与えない書」
という副題を持っている。それが何故なのかという点を詳しく知りた
ければ、そりゃあ勿論精読を繰り返す必要がある。その点は論を待た
ない。「道徳の系譜」に示されている「読み方」を見てもそうである。


 しかし、ここで簡単に紹介するために、あるエピソードに焦点を当て
ようと思う。といってもエピソードそのものは大した事のないものだ。
弟子を抱えるツァラトゥストラがその弟子たちを振り切ってゆくという
だけの話でしかない。しかしこの話が重要なのは、そこでツァラトゥス
トラが一見した限りでは矛盾するかのような話を弟子たちの下に置いて
ゆくからである。その話を要約するなら、以下のような話になるだろう。


 「君たちがツァラトゥストラを否定し終えた
  ときにこそ、私は君たちの元に戻って来る。」


 これは単なる矛盾ではないし、勿論もっと単純にどっかに行ってまた
戻ってくる、というだけの事でもない。これはいうなれば、強者だとか
支配するものの自覚である。内田樹氏がよく使う言葉で言えば「含羞」
といった辺りの事になろうかと思う。そしてこの事から副題の内容が
解かれるというのは、この話が単独性を要請しているからである。どれ
ほど他人の影響を受けていようと、どれほど他人の言葉を借りていよう
と、それを咀嚼し「自らの」ものになしえている事。その単独性が副題
を解かせる鍵である。単独性を万人に求めるのなら「万人に与える」と
言いうるし、また、単独性があるなら「何も与えられていない」とも
言いうる。与えられていようともそいつ自身という「ひとり」が保たれ
ている事が重要なのである。それを求めているからツァラトゥストラ
信者などではなくなる事こそ、ツァラトゥストラの教えに従う事なのだ。




 そういう訳で、人がひとりで考えうる可能性を無闇に否定するアレや
コレやに僕は賛同しない。半分冗談めいた「信者」という物言いだとか、
趣味を合わせるというところにも何か自と他の差異を平均化して無害化
する力を感じる。それは人をひとりとして扱う事を避ける事だ。そして
そういう意味では、何か特別な宗教に注意する事と、そうではない人に
注意する事は、少なくともこの国ではそれほど遠い事ではないと思える。


 勿論


 未曾有の、といっても過言ではない無差別テロという一点については
どれほど注意しても注意しすぎる事はないが、それをさせうる心性から
考えるなら、程度の差異はあれ、注意すべき対象が少なくはないだろう。