Memories In The RAIN

BLEACH (3)
posted with amazlet on 06.10.13
久保 帯人
集英社
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人はみな自由に生きるが宜しかろう。弁解無用。言い訳無用。
ただ境界を越えれば叩かれる。殴りかかれば殴り返される。
それだけのこと。
 弁解無用 - AnotherB

 このエントリは短文のエントリなので意に反してほぼ全文引用になってしまっている。
しかし問題は当然そんなところではないし、ある種の人らが言うような「お互い様」とか
いうところでもない。別件も含めればその気持ちは非常によく解るのだが、優先すべき
事じゃあないのは確かだ。そして問題は、ここで言われる「やり返される」事の意味だ。


 そこには「弁解を求める」「説明を求める」事が含意されていないのだ。「弁解無用」と
言われているからだ。この事は非常に見やすい事であり、それは何ら問題じゃあないと
思われるのかもしれないが、重要な事は、弁解を求めるという事の意味である。それは
端的には納得のために求められる。自分の意に反して行われてしまった忌むべき事に
ついて「説明を求める」事で、その理由を知ろうとするのだ。あるいは、その理由も結局
納得に足るものではないのかもしれない。そんな事は実際ありふれている。しかしその
過程を経る事が出来れば、少なくとも一つの事は明らかになる。それは「今」お互いの
納得のために敬意と時間を支払う用意が双方にあったという事である。説明自体結局
納得のいくものじゃあなかったとしても、それでもそうすべきだと考えてくれたのならば
それはすでに相手の心に対する敬意を意味する。自分ではない別の納得の仕草への
敬意を意味する。結果的に双方が分かり合える事はまずどうあっても非常にまれな事
でしかないのだろうが、重要な事は、そこへ向かうだけの用意を互いに示しあえる事だ。
分かり合える「かもしれない」と、自分には忌むべき事にしか見えなかった事にも何か
意味があったの「かもしれない」と、さしあたりとりあえず期待はしてみるその素振りだ。


 そうする事こそ、相手にもある「べき」実質的な自由を尊重する事になると思われる。


 それは 
 引用文で言われている自由とはいささか意味が異なっている。引用文中で言われて
いる自由とは、要するに「行動が邪魔されていない事」であって、逆に言えばそこには
その当人の自発性に対する目線がないのだ。操られている人を自由だなどとはとても
言えないが、そういった相手にも「スキにしろ」とベジータみたいな台詞を投げる事なら
いつでも出来る。だがそれは決して相手の自由を尊重している事にはならないだろう。
勿論引用文中で意図されているだろう相手が操作された人だとは思われないのだが、
相手の自由を尊重しつつその理由を顧慮しないというやり方が筋の通ったものだとは
少なくとも僕にはとても思えない。自由を尊重するなら、その行動に何か意味があった
「はず」だとさしあたり仮定してその意味を探る事こそ、必要になるのではないだろうか。