鳥籠のエヴァーグリーン


 議論について。


 ちょっとこれは看過出来ないというレベルのエントリを見つけてしまった。不断ならば
放っておく。すでにそう書いた通り松永氏関連の話を書く事にする間はその他の人を
対象にしたエントリは挙げない事にもしているのだが、まあギリギリで範疇内であろう。


 しかし
 このように書きつつ、結局のところ当該エントリを明示する事はしない。理由は単純。
当該エントリがまず議論を放棄しているのだし、さらにその当該エントリの指示に従う
場合でもやはり当のエントリと議論する事は何もないという事になってくるからである。
何故なら、そのエントリは下劣であり、不正であり、虚偽に基づく事になるからである。


 まず
 当のエントリの問題は、言っている事とやっている事とにズレがあると言う事である。
というのは、その「発言」と「当の発言が他人に行う事」の間に微妙なズレが見つかる
という事である。それはそのズレの微妙さを嗅ぎ付ける事が出来ない者を操作する事
である。それは少なくとも結果的には下劣であり、不正であり、虚偽に基づく事になる。


 では
 具体的にそのズレを指示する事にしよう。当該エントリの前段では議論における強い
者と弱い者とが指示されている。その強弱に関する話がまずはそこで展開されていた。
しかしどうであろうか。その結論部で指示されているものは果たしてその範疇に収まる
ものなのかどうか。そこで描き出されていたものは「議論好き」の危うさである。つまり
単純にいえば、議論における強者とそれら議論好きが短絡せしめられていると言う事
である。議論における強者と議論好きとの「イメージ」が容易に結びつく事自体は、そう
意外な事でもない。しかしながら、それは飽くまでイメージであり、単なるイメージの話
でしかない。何故ならここに、一方的な関係しか見出せないからだ。議論における強者
と議論好きとがいつでもイコールで結べるのならばいい。しかしそうではない。そこでは
一方から他方への関連しか成立しない。「議論における強者はおよそ議論好きである」
という事ならば言ってもいいだろう。だが問題なのはその逆だ。議論がただ好きである
という事からその者が議論における強者なのかどうかなどまず結論付けられないのだ。


 そして
 その事は当該エントリに示されている。議論好きに勝てるかもしれない、という人物の
事として示されている。その者は挑む姿勢で議論への好意を示した。しかし、エントリは
議論好きの餌にされるという暗い未来をそこで示すだけなのである。議論を好む事から
議論における強さの程度が測りうる訳ではないのである。エントリの含意を十分に展開
するのならそう考えなければならない。しかし、当該エントリの与えるイメージは決して
そのようにはなっていないと言わなければならない。議論好きの問題がそこで説かれて
いる。議論における強者の問題ではなく、その強者の中の性向の問題でもなく、議論を
ただ好むという性向に問題がある、と言うイメージがそこで撒き散らされているのである。


 なお
 念のため言っておけば、議論における半端な強者に問題があると言う事ならば異論は
ない。議論には小手先の技術でどうにかなる部分も相応にあるのも確かだ。そういった
小手先のやり方に特化した人間がおよそ下劣さを隠そうとしない事もありそうな事では
あるだろう。しかしその事を指摘しているエントリに小手先技が使われているのではどう
すればいいのだろう。あるいはそれは意図的なものではないのかもしれないが、それを
言うのなら議論における下らない強者についてもその辺りが吟味されなければならない。


 しかし
 当該エントリはそれをするのでもなく議論における強者が「出現してこない」ようにする
小細工を含んでいる。議論における下らない強者の問題を「議論好きになる」事の問題
へと微妙にズラすところがそうだ。それはまるで、その下らなさを克服する事が出来ない
かのようなイメージを植えつけてばら撒く。だがそれは真実か。その点は果たして事実に
基づく検証を経ているのか。それは確かなのか。その点についての答えは勿論すぐには
出ないものだが、一つの事は確実に言える。議論を好む事もなくなってしまえばそれを
検証する事もなくなるだろう、と言う事だ。検証の必要もなくなるからだ。議論の放棄は
そこでさながら教説じみたものになる。信じるかどうか、しかない粗雑な二択。そこから
一歩進めばそれでもう戻れない流砂のように。議論の意味を信じないならそれで終わり。


 しかし
 ここではそんな二択になんて関わりあわない。そんな必要がどこかにあるなどと僕は
まるで思っていないからだ。それが何故かという事さえもがおかしな事だ。このエントリ
では対象エントリの問題を解いていったからだ。それを僕は事実好んだのだし、これの
意味が解る人ならおよそそうだろうからだ。それはおよそ事実議論を好んでいるという
単純な事だろう。その単純な事実をどうして知的な懐疑で揺るがす要があるのだろうか。
議論好きになると言う事に果たして問題があるのかどうか、なってみなければ解らない。


 そして
 結局のところ、当該エントリはより大人しい形へと書き直されなければならないだろう。
つまり「これ以上」議論好きになる事のない人による嘆息としてである。そうでなければ
不躾に自らの疲労と敗北感を広く人に撒き散らす破廉恥な振る舞いになるだろうからだ。
その書き直しを経る前は、つまり現状では、当該のエントリは説得と言うよりも操作しか
出来ない作りになっている。それはまず下劣である。そしてそのエントリ自身が内心で
相手を嘘つきだと思えば関わり合いにならない事を教えている。なるほどその通り行動
するのなら、まずはそのエントリに含まれる嘘とも関わり合いにならないようにすべきだ。
従って、当該エントリの持つ正しさは自壊する。つまり、当該エントリは正しくもないのだ。
それはまずこの世の真実を言い当てているのではないと言う意味で正しくないのであり、
その上さらに、個々人の独立と言う権利上の能力を侵害してしまう意味で、正しくない。
従ってそれは虚偽に基づき、不正でもあり、さらには下劣であるともいうべきなのである。


 そもそも
 議論における強者と議論における弱者の比率が出てくる時点で話は終わっているのだ。
何故ならその時点で現実的な議論が「常に」「強者との議論」になるとも言えなくなるから
である。単純に身の丈にあった議論をすればいいのだ。そこに災厄など潜んではいない。


 そして
 あわよくば議論において強くなる事が出来るなら、それは下らない強者から誰かを守る
事にも繋がる。そしてそれこそ下らない強者の問題に関する最も現実的な一般論であろう。