ほんの少し昔の物語


 さて。

 
 ここのブログの更新に少しだけ間が空いた。およそ一月になろうか。以前からこうした
意図的な間の空け方をしてきたのだが、今回のものに関してはそれほど意図的なもの
ではない。今回は単に言うべき事がなくなったためにそうなっただけの事である。ブログ
更新のブランクに起こった事も、さほど言うに値する事ではない。いくつかの総括的な
話も以前からなされてきた当人の主張の再掲に過ぎないし、こちらがそれらの状況に
抱いた感触もすでに述べた事の射程圏内を少しも出ない。言うに値する事はなかった。
そしてこれもすでに述べた事だが、僕は松永氏関連の話を書く間に他の話を扱わない。
無闇に人を巻き込んだり松永氏関連の話を拡大拡張拡散させてはならないからである。
松永氏関連の話について書く事もその他の話について書く事もなかった結果の、一月。


 それは大した時間ではない。僕が個人的に抱える問題でさえ短くとも二年、長くて
五年を超えるスパンを持っている。しかし決してその問題で死者や逮捕者が出たとか
言う訳ではない。少なくとも僕はそんな話を聞いてはいない。それでもそれだけ時を
費やしてきている。それに比して考えれば一月でも半年でもそれほど長い時間だとは
思われない。松永氏関連の問題の射程と密度とを考えればそう考えるべきだと思える。


 しかし
 この一月が示すように、状況は少しずつ静かになりつつある。なされる主張は以前
なされたものたちが入れ替わり立ち代わりただ繰り返されているだけである。それは
事情の停滞に対する態度決定の過程だ。かつてなされた主張の反復は事情の停滞から
来るものであり、その停滞への迷いを意味している。現状で見えてきた停滞について
どう考えればいいのかと言う迷いである。今見えているものはその迷いの過程なのだ。
従って、重要な事はこの頃見られるそれぞれの発言自体が問題の根ではないという事
である。それらの発言たちがこの状況をうまく説明し切れていないからこそ、それら
発言が繰り返されながら事情の適切な解釈が求められているのである。従って、この
状況で重要な事はその静けさそのものである。状況の停滞そのものこそが問題なのだ。


 状況は静まり始めた。だがそれに苛立つようにかつての主張が再現され続けている。
静まり始めたこの事情に即して言うべき言葉がまだ見つけられていない事をこそ問題
にしなければならない。何故状況は停滞し、また何故言うべき事が見つからないのか。


 単純に言えば
 事態の停滞は、少なくとも今は決して事の終わりを意味する事が出来ないのである。


 この事を理解するための格好の題材はume氏である。その訴訟に関する発言は結局
現実的なものとしては確認されていない。訴訟は行われてはいないようだし、さらに
その準備段階が整ったという話さえない。そこで事態は止まり、止まったままである。
しかしそこでそれに関する話が終わったかと言うと、誰もそうは考えていないだろう。
訴訟が行われなかった事が問題視され、今なおそのロジックを掲げる人もいるだろう。
だが重要な事はそんなロジックが結局のところ無力だと言う事だ。それは現実的には
ただ与えられた停滞に後付した理屈であり、その停滞に本質的に依拠しているからだ。
それはその停滞についてのお喋りではあっても、その停滞を説明する威力は持たない。
その停滞を説明するものはume氏への追求の正当性と不当性とのあるバランスである。
そのバランスが結局のところume氏への追求をその程度に押し留めているからである。
ume氏への追及が持つ正しさは現状ではそれほど明らかではなく、だから追求の手は
停滞を余儀なくされている。特に松永氏関連の話題として扱う土俵の上での事ならば
なおそうなるだろう。何故ならume氏への追求はそこから出てきた話ではないからだ。
ume氏への追求は泉氏個人の活動との関係で問題視されたのであり、それは松永氏の
問題とはまだ繋がっていない。泉氏と松永氏の線自体まだそれほど明確に立証された
ものではないからだ。そして勿論泉氏を飛び越えるようにume氏と松永氏が繋がった
と言う話も出てはいない。勿論、両者が無関係だと十分示された事もまたないのだが
だからこそ追求の手が半端に踏み込んだままでの停滞が許されていると言う事になる。
そこで両者の無関係性がまだ十分明らかではないなどと言ってみたところで無意味だ。
そもそも明らかにするべき理由がどの程度あるのかと言う事の方が重要だからである。


 そして
 松永氏との関係性を説明していないために泉氏の信用はすでにある程度見限られて
いる。そもそも報道機関企画も松永氏の問題が浮上する前から実現不能状態にあった。
なされなかった訴訟を問題視する事の意味が良く解らないように、実現出来なかった 
報道機関企画を問題視する意味も僕には良く解らない。泉氏を単独の個人として見た
場合に気になる点がないでもないのだが、それは松永氏とは関係なしに気になる点だ。
従って、問題に対する照準を泉氏に合わせている向きについては僕には全然解らない。

 
 重要な問題は、松永氏の問題が判断と責任との根本に関わる問題だという事だろう。