一個ずつ

それならあなたが「ことのは問題」に関して
私に為す発言は、全て後出しではないのか。
あらあらあら - AnotherB

 これは論旨を取れていない発言。と言うのは僕の書いたものはもっと「限定された」
後出しについて「だけ」それは出来ないと言っているからである。簡単に直したものを
書けば「ここで論点を認めたのなら該当箇所が解らないという言い分を7月に後出し
する事は出来ない」となる。つまりは「一旦認めたから」というところからその後出しが
出来ない論理的な理由が出来ている。前言を撤回するなり何なりいるだろうと言う事。


 次

「この疑いが有効」と言った記憶はないと思いますが、それはどこで?

 これは妙な事だ。つまりは有効だと認めないような疑問をわざわざあのような時に
書いたのだろうか。ume氏や泉氏らに疑いを向けられかねないような事を有効だとも
思わずに書いたのだろうか。僕ならあのような危うい事を書く時にはある程度それの
有効性を認めるつもりでなければ書けない。だから「有効だと言っている」というように
読んだのだが、BigBang氏はそうではないのだろうか。そのように論旨を取られたく
ないのならばそもそも疑念など表明すべきではないだろう。相手にも失礼な話である。


 また
 「無理筋」の根拠と聞かれるのも妙である。BigBang氏の書いた文章に開発者の
パソコンの故障と松永氏の「引越しの時期と一致」が書かれているが、どう読もうとも
「まだ引越し先も決まっていない」13日に開発者のパソコンが故障しただけ。引越し
時期との一致にはならないからだ。引越し先が決まってないなら引越しの具体的な
計画にもなっていないと見るのが自然ではなかろうか。他に何がありうるのだろうか。


 

「このエントリ」の先にある箇所の引用だけであなたのユーザー
カルマに相当する論を組み立てることは無理なはずだし、実際
ここだけを読んで批判したのではないでしょう?

 これは下のエントリを参照されたい。要旨だけを言うなら「書かれなかった」事こそ
問題だと言っているのであり「書かれなかった」部分の引用など出来ないという事だ。
なお、引用に関する事より「論旨を取る」事の方を優先して頂きたい。このエントリの
最初にあげた「後出し」云々の問題は引用が正確でも論旨が取れなければ意味が
ないという事を良く示している。そして議論を現実的に動かすのは論旨を取る能力。
その論旨の取り方に疑義が生じた時のために引用をする。メインは論旨の取り方だ。


 次の「いやな偶然」に関して「何の関連性にもならない」の部分は上に書いた事。
もう一度書けば「引越しの具体的な計画が立っているとも読めないのだから引越し
時期と一致しているとする方が妙」という事。13日に引越し先はまだ未定だった。


 さらに

そもそも「沈黙の方がマシ」などと軽く言う
ことへの、心理的抵抗感はないのだろうか。

 ご冗談。有効性を認めもしないような疑念をこんな話で書く方こそ「軽々しい」。
あるいは「疑いが有効だと言った覚えはないが有効だと思っている」とか言うの
だろうか。書くなら検証に乗り出すほど有効性を認めるものに限るべきだろうに。


 さらに

引用されている部分を本人=私が穴の開くほど見つめても、
「「ユーザーカルマ」を梃子としてオウム関連疑惑が
「まだ残っている」と表明している」というあなたの発言に
該当する箇所はない。

 「該当する発言がない」だけで「合致する発言」はあるはずである。論旨を見るべき。
「カルマという語に宗教性を見る事が誤解だと認められるのは泉氏たちには宗教性が
全くないと説明され納得されなければならない」言うのが当該発言の骨子になるはず。
そうであればその「説明」「納得」を経る前は「まだ誤解だと認められない」という事に
論理的に帰結するだろう。「Aだと認められるためにはまずBが要る」という理屈だから
「BがなければまだAだとは認められない」という事になってくる。論理的に当然だろう。


 そして

そうではなく、あなたが「誤解である」と言い切る根拠を尋ねているので
あり「説明され、納得される」プロセスの不在を言っているのである。

 ここに至っては何を言っているのか解っていないのだろうという気にもさせられてくる。
当該発言が書かれた7月10日付のエントリをご自分で見直すべきだろう。そのどこに
j_m_w_tに何かを要請している発言があるのか。そこにこちらの論理がわずかにでも
あったのだろうか。いつのまにこちらは「誤解である」などど言い切った事にさせられて
いるのか。一体何を見てこのような「事実に反した」発言が出てくるのか。理解し難い。

泉さんや松永さんがすべき言論なのである。ここの理解は大丈夫?

 これは原則論だ。その泉氏らに向ける疑義に合理性があるかどうかであればそれこそ
「客観的」に可能である。つまりは当事者でなくても可能。上の議論もそのレベルの話だ。

 

当該の企画者であり、事情の説明を求められている泉さんが自身の口から
説明することが「明らかに正当である」話。それを、「公開したい」私が
許可をとって公開しようとしたり、「公開したいのですが」などと連絡を
するのは筋が違うと言っている。

 これも空疎な原則論だ。事情の説明を要請されているとはいっても法的に要請されて
いると言えるほどではない。泉氏らの信用の問題に関わるという意味で要請されている。
そうであればその信用に関わる機密を泉氏らの許可もなく公開する事は出来ない話だし
公開が必要だと考えるのであればその説得とか許可の取り付けという形でその必要性を
訴えるべきだ。これは公共性を私人や私的企業が担保するというアンバランスをそれら
私人や私的企業の信用で埋めるために必要なプロセス。報道機関も誤りうるためにその
信用が重要になってくる事と同じである。そしてその事はおよそ常識なのではないのか。

上の3つのどれにもあてはまらないと?(私もどこかでそれを
言われたような気がするが)それならそれでいいが、難解な
表現どころか意味がとれない。いつあなたが私に「提示」を
求めた?求めなくてもそれくらい察しろとでも?

 一つの事に蹴りをつける前に次々に論点が摩り替わってゆく事を阻止するために
敢えて逆戻しをしたまで。さらに言えば「封殺をした」などと根拠を示さないで書く
事自体失礼な話であり、それで「人格攻撃まがい」に相当すると言っている訳だが。