秘私性に関する下劣さについて

 例えば、最近の松永氏関連の話をちまちま書き始めた頃には、何故だか知らんが
すぐさまオウム認定をしてくるような訳の解らない発言がわりあいよく見かけられた。
勿論これは根拠もなければ事実もない話であり、当然僕などは一笑に付すだけだ。
否定しなければならないほどの理由が示されていないなら否定にも値しないからだ。


 勿論
 そのような情緒的な疑いや、むしろ恣意的な疑いが出てくるような事態はそもそも
ある程度予測出来る事である。ネットではそう言った狂言をやり放題であるのはよく
知られている。ネットでそんな話をするという事は、当然にその予測をも受け入れて
いるという事だと言っても過言ではなかろう。だから、その点にはあまり文句はない。
そういった恣意性や情緒に一々応えるという事は問題を私的な領分へ引き下げる事
だからだし、本題を忘れ、瑣末な点に拘泥する事が戦略としても無意味になるからだ。


 しかし
 例外がある。少なくとも二種類の例外である。それは外から来る例外と内に向かう
例外である。一つ目のものはシンプルだ。関係性の薄い人が疑念を吹き込みにきた
場合である。勿論その疑念にきちんとした根拠があれば別だが、それがない場合は
むしろ何かの恣意に基づいた誘導を謀った可能性が出てくる。勿論現実的には単に
疑念を出すだけ出してその追求を人任せにしただけだ、という事もありうる話である
が、質と量によってはそうとも言っていられなくなる。問題にせずにはいられなくなる。


 そして、二つ目は伏せられるべき情報を悪用した場合である。これはそうした恣意
的な疑惑追及に際しての問題である。その恣意的な疑惑追及に際して相手の秘私
性を無闇に侵犯しなければならないという事は、要するに、当該の追求を無理に推し
進めていると言う事になるからだ。それは合理性によって正当化されるべき事である。
合理的根拠があって初めて許される事であり、それがなければとても許容出来ない。



 勿論
 この二つ目の点についてもそもそもネットであればある程度予測出来た事であり
またそういった瑣末な点に拘泥する事で本題を遅延させたり脇道にそれさせる事が
よくないのも確かではある。それは公共性の観点からはある程度抑制されるべきだ。


 しかし
 それを離れて私的な領分から言うならば、この二つ目の問題は許容出来ないもの
である。それは他人の秘私性を理解出来ていないという事だからであり、端的には
自他を混同して他を従属せしめんとする下劣さだからである。それは許容出来ない。
それが許容出来ないのは、怒りからでも悲しみからでもなく、事実として厳然とある
差異を識別出来ないからである。それは下劣なものと高貴なものとの距離の感じを
ない事にするために許容出来ないのである。見下げ果てた者とそうではない者とを
軽々しく混同してしまえるというその「事実」だけですでに許容出来なくなるのである。


 従って
 こういった相手に対しては特に怒りも表明しないし、相手から謝罪を表明されても
無意味なのである。問題は、下劣な振る舞いをなしうるという能力にあるからである。
勿論、このように怒りさえ与えていないと言う事が相手にとってムカつく要素だろうと
言う事も予想の付く事ではあるがその事もやはり無駄である。問題は情緒のレベル
にはないからだ。問題はその能力に、つまり人間性にある。従って、相手の秘私性
への侵犯という問題は、どちらか一方の根本的な成長によってしか解決されえない。
当然そう言うだけですぐにそれが可能になるはずもないのだが、それ以外の一切は
全く無駄である。それがなされなければすでに与えられた軽蔑は外される事がない。