個人の単独性は常識の共通性と矛盾しない

途中で降りろとか、言うは易く行なうはヒジョーに難しな話を
「自分が被害者だったから」声高に言ってるだけ。加害者の
目線とか嘘つくなって感じ。若しくは、都合のいいこと言うな、とも。
出来るか出来ないかは、モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。
後部座席(終章): BigBang

 BigBang氏のエントリについた「私」氏のコメントだがこれのどこが問題なのか。
これは「気持ちは解るが実際はそうすぐには無理だ」というだけだろう。「言うは
易く行なうはヒジョーに難し」。滝本弁護士的に言うなら「ぼちぼち」という話だ。
「出来るか出来ないかは、モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉」も妙な
読みがされているように見える。単に「モラルとしては確かにそれが要請される
けど常識的に無理があるだろう」と言うだけの事。特に問題ないと思えるのだが。


 そして
 その「ぼちぼち」を忘れているように見えるから「具体的な加害者」側にいると
言うよりは「身内に発生する自分を責める気持ち」に過ぎない訳だ。その割りに
前者に触れえたように書くから「それは都合いい見方だ」と言われたのだろう。
特にそれが松永氏らに向けられた文ならこの違いを見て取るのは重要のはず。


 従って
 エントリ部分はともかくコメント欄でのやりあいと次のエントリは問題であろう。


 小ネタ1
 ボクシングファン氏は「単なる違い」を何故か「概念的対立」だと即断している。


 小ネタ2
 katshi氏の言う「道徳と倫理の違い」は、要点という割りに何か明らかでない。

 
 小ネタ3
 エントリで要請されているものは道義的な責任でもないと言われてもいるのに
コメント諸氏はそれを無視している。勿論判然としてもないので議論も難しいが。


 小ネタ4
 この手の議論でよくあるが「個々人は別だ」と言う言い方をする事自体が妙。
単に別ってだけじゃあなくてある程度は通じるから「別だ」と「言える」はずだ。
そこには言葉とは裏腹に「言えば通じる」期待がある訳で、そこが肝心な点だ。
勿論現実的な議論ではすぐに解りあうのなんて無理でもあるが、この言い方は
「初めから」その可能性も根絶させられて当然というような妙なシロモノである。