他人の幻想に巻き込まれたら終わりだ

 404 Blog Not Found:Fatal Abstraction


 滝本氏と佐々木氏の「論理」だけを並べて両者がともに抽象化の陥穽に嵌り
込んでいると言っているエントリ。そして個別的な扱いの重要性を述べている。


 しかし
 このエントリ自身も抽象化を行っているのは自明である。というのも、まずは
ここで滝本氏の「論理」が問題だと言っているのであって、その活動の実績も
問題だとまでは言われていないからである。従って、これは滝本氏個人という
よりも、滝本氏の論理を「引き継いで」「発展させて」「利用する」ような向きに
ついての「危険性」が言われているのだと見るべきだろう。特に「解り易くする
ための例」などを見れば、具体的な個人としての滝本氏ではなくて、その主張
から転用させた結果が批判対象だと言うのは見易いだろう。あれを滝本氏の
主張「そのまま」だと読む事は出来ない。勿論その「転用」について小飼氏が
どの程度自覚的なのかは怪しい。その点で自分から論旨を台無しにしている
ように思えるし、本来批判すべき事と滝本氏自身との弁別についてバランスが
取れていないようにも思う。しかし、その小飼氏のミスに付き合う必要はない。
ここで批判されているのは滝本氏の主張そのままではなくその「転用」であり、
個別に見るならその転用は滝本氏の主張に「基づいて」はいるが、それだけだ。


 従って
 ここで批判されているのが誰になるのかを見極める必要がある。またはこの
小飼氏の論理を「誰の名義で」批判するのかと言う点に注意を払う必要がある。
というのは、ここで批判されているものは「抽象的論理に巻き込まれる」心性
だからだ。それは何もその「対象」について抽象化する事だけではなく、その
「主体」についての抽象化をも批判しているだろう。自分自身の具体的な現実
から離れ、どこかの誰かの論理をさほど咀嚼せず自分の意見に換えてしまう
抽象化は実に危険だと言う他はない。勿論「だからこそ」強力な宗教に危険が
あると言えるのである。そこに程度の違いはあるにしても個である自分自身を
見失ってしまいかねない危険がある事は変わりがない。そして特にオウムに
その傾向が顕著だった事はよく知られている。他人の幻想には注意すべきだ。


 従って
 この危険を問題視するのならまず「自分を抽象化する」事には注意すべきだ。
それは小飼氏の論理を批判する時も当然そうである。同じ理由で小飼氏自身
その「自分自身の抽象化」を行ってしまっている点で批判されるべきであろう。
小飼氏の誤りは批判すべきだ。それは十分批判すればいい。しかしそこでは
自分への抽象化に注意すべきだ。何であろうと他人の幻想は危険だからだ。