もひとつ

 松永氏絡みの話では仮定の話がやたら見られる。曰く「こうかもしれない」
「こうだったかもしれない」。しかし、その仮定を支持する相応の理由がない
場合、それは単なる一般化や普遍化への道なのであろうし、善意とか肯定的な
それじゃあないと言う点でより注意されて当然の話だろう。そういった辺りを
気にするとか調べるとかはともあれ、そんなのを「口にする」のは人をそれに
巻き込む事なので、多くの人は書くのも読むのも遠慮したいのではなかろうか。


 あ

 
 上のだけならこれもまた「仮定」だな。僕はそういうのは遠慮したいって事。