藪を作って蛇を飼う

 2006-05-12


 力ある人の勘違いと言う「有害な」場合に批判をする事が私怨を招いて
しまうのではないかという危惧から匿名でコメントする事によって相手の
意見を是正させる事が望ましい、とするエントリ。ekken氏を始めとする
人たちによって相応に出る杭が打たれてはいるのだろうけれど、やっぱり
誰も突っ込んでないところが結構ヤバいのではないかと言う気になるので
書く。というのは、ここで主張されている事が「匿名の批判」と言う場合
には不正確になってしまうと言う事である。正確に言うとそれは不特定名
であって、特定仮名ではない。要するに「名無し」ではあってもハンドル
ネームなどの「特定されうる」名前じゃあないと言う事である。以下引用。

「実名あるいは他ブログを運営している名(ハンドル)で批判
行為をやる」というのは、デメリットや危険が多すぎる

 改行は引用者による変更済み。で、これを見ると「単なる匿名」の問題
じゃあない事は自明である。ブログとの連続もブッちぎってコメントする
事が望ましいと言われているのである。従って、単純に「匿名での発言に
価値がある」と言う言い方はこの文脈に相応しくなく、余りよろしくない
誤解を引き寄せてしまうように思う。ともあれ、エントリの問題を続けて
見てゆく事にする。例えばはてなブックマークコメントやekken氏などは
「潰す」宣言を主に問題視しているように見えるが、実際のところそこは
まだ問題の入り口でしかないのではないかと言う気がする。単に「潰す」
と言う意志だけであれば、まだしも議論の仕方に応じた「納得」が相手に
与えられると言う事もありえなくはないからである。勿論ネット上で実際
どれだけ有益で有効な議論がなされているのかどうかと言う疑問もあるが、
ともあれ理屈の上では「正しさ」が、あるいは「納得」が介在しうるとは
言えるだろう。常にそれがあるとまでは勿論言えないが、ありうるという
くらいは言っても良いだろう。しかしここで翻って、提案された不特定名
によるコメントはどういった効果を生むだろうか。そこに「納得」しうる
何かがありうるだろうか。どの人がどの発言をしたのかも解らず、さらに
批判者が実際「自分自身耐えうる程度の要求」をしているかどうかを検証
するという常識の枷もそこにはないのである。前言撤回なんてやり放題だ。


 そういうのを相手に、どう「納得」しうる潰され方が出来るのだろうか。

 
 勿論


 そういう勘違いをしている人には「納得」させる必要なんてないとまで
言い出したりするのかも知れない。しかしそれを「愚民への啓蒙」という
他にどう呼んで良いのか、僕は知らない。何かいい言い方があるだろうか。
僕としては、次に引くジャイロ・ツェペリの台詞こそ重要な事だと思える。

「納得」「誇り」なんだッ!「誇り」のためなら
生命を賭けれるぜッ! 「Steel Ball Run」4巻


 そして


 さらに言えばこの不特定名によって私怨や私怨への疑念を回避する方策
自体に欠陥があるように思える。というのは、それがむしろ疑惑を増やす
方向に機能するだろうと思えるからだ。13日付けになっているエントリ
では痴漢冤罪の話が出ているが、例えばその疑いを嫌がって電車乗車時の
覆面着用が義務付けられたりあるいは少なくとも一般的になったとすれば
どうなるだろうか。そこでは確かに痴漢冤罪だと「疑われても平気になる」
という事は言えるだろう。覆面によって誰だか解らなくなる訳だからそう
なる事はごく当然である。しかし、そうであれば「実際の痴漢」の摘発は
どうなるのだろうか。当然冤罪が平気になるのと同じくらいに平気になる
はずである。冤罪かどうかの区別がつくなら冤罪なんてない訳で、冤罪を
「平気にする」仕組みは当然「冤罪じゃあない場合」にも有効になる事に
なってしまう。そうすると冤罪を引き起こしてしまう「自称被害者」とか
「自他共に認める被害者」の気持ちとしては決して健康的じゃあない事に
なってしまうのではないか。そうすると、むしろ「今度こそ捕まえてやる」
という心理が生まれてもそれほど不思議じゃあない。つまり、吹っかけて
くる疑いが念の入ったものになり、しつっこくなったりしてしまうのでは
なかろうか。そうすると、これは「疑念回避」に役立ったと言えなくなる。