なぜころ問答の続きみたいなもんだが


 日本語で正しいという時には「正確さ」「真正さ」「正当さ」などが含意から意味が選ばれるかそれらが混同されつつ理解される。


 特に正当さと真正さには注意が要る。それが手続き上認められていれば正当であるとはいいうるだろうが場合によっては真正でない事もなくはないのである。



 そして、では真正さとはどういうものかというならそれは力の向かう先に関与するものである。小学校のクラスで犬派と猫派に二分されたペット論争があったとしても、それだけならば別に「論争に勝った側には正しさがある」事にはならない。しかしこれがクラス全員で世話するペット選びなら話は違ってくる。犬がいいという意見がクラスの大多数を占めた時に、その意見が「正しくなる」のはここにおいてである。ここにおいて犬か猫かという事が「クラスの」問題になるからである。それまでなら単に「個人の問題」なのにクラス内で話していただけなのである。そしてまた、クラス内で犬が好きな人が多いからといって、先生が勝手に代弁してはいけない場合もありふれた問題だ。クラスの全員の好みを考慮していたとしても、そこでイメージされている回答がクラス単位で飼うペットについて考えていない場合があるからだ。クラス全員で飼うなら犬派と猫派の論争にならないようにウサギを敢えて選ぶ子もありうる。あるいは家でなら飼えないウサギに人気が集中したりするかもしれない。先生の代弁はその場合にはむしろ問題を引き起こすだけだ。



 そして、力の単位は様々ある。個人、クラス、学年というだけではなく、その場面ごとに個人を区分して見る事もそう珍しくない。ガキ大将の前で萎縮しても不断には強がってたりする場合もあるだろう。そしてそれはともにそれなりには正しい。勿論、自分はいつだって強いとか言い出すと話は違ってきたりもする。