可傷性と怨恨

 ダメージは才能ではない。才能の結果がダメージなのである。この事は、一つの
同じ出来事に遭遇しても傷を受けないものと傷を受けるものとがいる事からしても
明らかである。ダメージから、その経験から他の出来事への転用が出来るとしても
そもそも可傷性がなければダメージ自体がありえない。ダメージは可傷性に気づく
経験に過ぎない。従って才能として必要になるものはダメージそのものじゃあなく
ダメージをあらしめた可傷性である。逆に言えば、ダメージ自体は必要じゃあない。
そのため、ダメージに振り回される事は才能の無駄遣いという点で批判されるべき
事である。怨恨の問題は善悪の問題ではない。それは才と言う差異の問題である。

沈黙の二重基準

その人の「考え」は批判できるが、その人の「意志」を批判
する事は無駄だ。むしろ「通りすがり」さんの行為は前者、
つまりこの場合は政治という事になると思うが、そのため
には世間受けする言辞を使うべきだ。そういう意味で、私は
「通りすがり」さんの目指している到着点が分からないの。

 通りすがり氏に対するトリル氏のコメントだが、何か変な話。というのは、まとめて
見てよく解ったのだが、基本的に通りすがり氏は「説明を求める」事しかしていない。
そして批判部分は説明が「まだ十分でない」事を言うために書かれていると読める。
さらに言えば、通りすがり氏が求めているような説明は泉氏らには不可能なものだ。
というのは、泉氏らがその不十分な説明をするようにと誘導した訳ではないからだ。
それぞれ「独立に」説明を求める姿勢がなければ真相にはまず辿り着けないだろう。


 そして
 実際のところ必要な事は「真相」ではなく、偽装を偽装であると告発する事の方だ。
それさえ出来れば最低限の注意は向けられるからだ。そもそもネットがそういう偽装
向きの環境である事を考えればそれ以上の事は余り現実的ではないだろうと思える。
それは余り良い事ではないが、しかしその状況下で問題追及がなされている以上は
その良くない前提の上で出来る事と出来ない事を考えてゆく必要があるはずである。


 単純に言えば
 ネットでは金蔓のない人も発言出来る。それはその他のメディアとは違って企業らに
自浄作用を促す仕方で吹かしを取り除くやり方が使えない、と言う事だ。無闇矢鱈に
実名暴きをしまくる訳にも勿論いかない。そして、また金蔓のない人でも発言出来る
と言う事は、素人でも子供でもどんな下らない話でも発言出来るという事である。そう
いうところでも規制なしに議論が出来るべきで、だから全方位への批判が必要なはず。

小ネタ:「戦争はまだ出来ないけれど」

 コレも松永氏の話とは関係ないが、ま、小ネタだしいいだろうと言う事で書いとく。


「くそ〜一足遅かったか。テポドンめ、まんまと壊しおって」
「いいえテポドンは何も壊さなかったわ。ロシアの方に落ちてくれたんです。」
「いや、奴はとんでもないものを壊していきました。・・・あなたの理性です。」


 ・・・というネタをコレ読んで思いついた。極東ブログに同意しているkagami氏の
エントリなんだが、誤読がある気がする。「冷静でいなければならないが、無感覚
でもいけない」という趣旨のエントリで、無感覚でいてはいけないとされているのは
「認可を与えた」とか「OKといった」とか「前提的な了解をした」方に、であろうから。



 ※上のネタと下の作品は一切関係ございませんが、買って貰えればそれはそれ。