Frat DEVOLUTION


 さて。
 佐々木俊尚氏の「フラット革命」について一通り考えがまとまったので書こう。
 この本が問題にしているのは一口には権力の発散である。かつては構造に
 集権されていた力の分散である。この本で集合知が問題にされているのは、
 それが発散する力を継ぐ、継承者の候補に見えるからだと言っていいだろう。


 だが実際それは継承者としては不十分である。それが何故かという分析を
 通じこの本は主題である私性の問題に至る。少し踏み込んで言えばこれは
 むしろ個体性と言うべきだろうが、まずはこの本での扱われ方を引用しよう。

「個」というのは、そこから互いに交渉し、調整し、議論しあって公共性を
立ち上げていくための「私」の書式でなければならなかった。つまりは
個の確立こそが、公共性につながっていくという考え方である。

佐々木俊尚「フラット革命」131頁

 ここで佐々木氏は次のように問う。しかしこの設問はおよそおかしな疑問だ。

では、
<わたし>の集合体は、永遠に<公>にはつながっていかないのだろうか?

同上

 この質問がおかしいのは、まずネットを一様に私性の集合と決め付けている
 からだ。だが実際のところネットにはそんな枷などない。ネットには極私的な
 文章が表されている事は認めてもいい。しかしそれしかないかどうかは別だ。
 

 その事は佐々木氏自身指摘しているはずの事だ。松永氏の件に関して見ても
 佐々木氏や泉氏への批判が単に私的な領分から出てきたものだけではないと
 佐々木氏自身解っているはずだ。それは個を通じ公を臨むものではなかったか。
 そうだったからこそ佐々木氏はBigBang氏らの正当性を認めたのではないのか。
 しかし佐々木氏の結論はむしろ公然性と私性の結託に「公」を委ねるようである。

浮遊する<わたし>の膨大な集合体は、相互にダイレクトにつながり、情報を
交換していく、相互システムとして形成されつつある。そして、もしこのような
神話システムが発達していくのであれば───その枠組みの中では、その
やりとりそのものが、<公>としての責任を実現していく枠組みとなりうるだろう。

前掲書、271頁

 ここでは公然性こそ私性を公共性に至らせるための梃子として機能するかの
 ように書かれている。だがそうなのか。ここではこの点を佐々木氏の本にある
 情報源から再検討して見る事としよう。つまりデータは佐々木氏に依るものだ。

FLOOD

私は、膨大なノイズ───泉あいや松永に対する罵詈雑言、「黒幕は
オウムだ」と言った妄想などに腹を立て、それらのノイズに思考を引き
ずられた挙げ句、さまざまな人たちが行っていた論理的な批判に目が
向かわなくなっていたのだった。つまりは批判を黙殺し、「絶対的正義を
掲げて声高に人を非難している」と十把一絡げにしてしまったのである。

前掲書、265頁

 さて。
 ここで要請されているものは自明である。それはノイズがある事の容認であり
 その看過である。そしてその上でまともな発言を望む者はそのノイズを自力で
 潜り抜けられなければならないとされているのである。逆に言うとこの文章は
 ノイズは自ずから退けられる訳ではないと言う事を含意している。さらに言えば
 ノイズは自覚的に意図して退けられる必要がある事になる。従って、ここでは
 この自覚や意図なしには公共性なんて出現しえないという事が出来るだろう。


 そして
 そこで問題になるのは、そう言った自覚的な振る舞いを単に極私的な行動だと
 言うべきなのかどうか、だ。佐々木氏自身ノイズの波に浚われてしまったように
 そこには明らかに能力と努力の段階がある。それはその他の極私的なブログら
 とは区別されうるはずである。それをも公然性の所産として済ませうるだろうか。
 確かに公然とノイズがある事こそこの自覚的なノイズ除去のスタンスが出ると
 言う事は出来る。だがそれは自然発生というほど自動的なものではないだろう。

BLOOD

 
 さて。
 しかしこの自覚的なノイズ除去のスタンスも自分たちがノイズに包囲されている
 事を拒まない。その事は佐々木氏への批判が現れる事から考えれば解る事だ。
 ノイズらの包囲を打ち破る方向でノイズらと混同されないようにするのではなしに
 単にノイズをそのままにそこと同一視する視点を拒絶する。だからこそ佐々木氏
 への批判が出てきたはずだ。さて、ではノイズが害をなすのはそうした同一視が
 なされる場合だけだろうか。そうではない。何故ならノイズを潜り抜け発言を精査
 しうる者もまた限られているからだ。だから相当程度にそうした非ノイズを自分の
 側につけていなければ、誰がそうしたノイズの除去をしてくれるのか、という問題
 になってくる。つまりそこで必要になるのは論陣である。だがそれは説得力とは
 別の要素だ。それは頭数であり、偶然の産物であり、極私的な交友関係なのだ。
 それが発言の内容、及びその受容を左右する。この事を承服しない者のすべき
 事はここでもはや自明である。それはノイズそのものに自力で対抗してゆく事だ。
 

 それは恐ろしく非効率的な作業である。非ノイズもノイズから誰も守りはしない。
 消極的に単にその違いを見て取るだけだ。しかしその間にもノイズはノイズらに
 自力で対抗しようとする者をノイズそのものに取り込もうとするだろうし、出来る。
 その中で自身の独立性を、あるいは単独性を、十分な個体性を見せ付けるため
 にはノイズを分析しその分析を示す事で個としての自分を示す必要が出てくる。

 
 だが
 ノイズとは決して全て悪意に基づくものじゃあないし、悪であるとさえ言い難い。
 それにも関わらずそこに対抗せずにいられない者はいる。その道は血塗られた
 道になるだろう。ノイズであろうとそれを書く誰かはいるのだし、それが例え極私
 的で卑小でさえあるような表現だったとしても、それをなすのに使われた心血は
 ある。その心血の洪水を打ち破らずにいられない者はその過程で手を汚すのだ。

ぶらっと

 さて。
 こうした状況の全てを包み込んでいるのがノイズであり、個々それぞれははほぼ
 無害な発言群である。そしてそれらの芯にあるのはこういった状況を看過してゆく
 無関心であり、それとともに自らをも看過して貰おうとする別種の無関心であろう。
 こうした無関心はどんなものをも育みうる。その無関心を直接問題にしない限りは。
 従って、こうした無関心がぶらっと革命にも似た大変化に繋がる事もそう怪しくは
 ないだろうが、その中で失われるものにもまた制限はないだろうと言う事になる。
 その中で何かが失われないよう望むのなら、そこに意志とその表現が要るだろう。 


 つまりはただぶらっとネットの大海にやってきたのではなく、意志を持ってそれを
 示し、自らもそのノイズの大海に呑まれるかもしれない危険に身を晒す事になる。
 公然性と私性の結託はむしろその大海であり立ち向かわれるべき自然であろう。
 つまりそれが場としてあるだけでは決して構造から発散した力なんて捉えられは
 しないだろう。「公」なるものがネットに現れるにはその筋道しかないように思える。


 そしてその動きを見通すには当の大海の中で具体的な筋道を探す他ないだろう。


◆同日追記
 タイトル誤記修正。