Log LAG

 さて。
 批判を始めよう。まずはここに見られる脚注の問題だが、これは実際不十分な
 指摘だろう。そもそも同じ問題について二種類の註釈がある事自体おかしな話
 だからだ。まず一つ目はここの最下段にあるもので、二つ目はここの最下段だ。


 注目すべきはその記述が前後食い違う事である。端的には泉氏の扱いである。

民主党のブロガー懇談会をアレンジした泉あい氏にも批判が飛び火した

註釈:ことのは問題、145頁

インタビューを敢行した泉あい氏がオウム関係者ではないかと憶測を呼んだ事件

註釈:泉さんの事件、229頁

 知っている者はこの註釈のどちらがより実相に近いか解る。だが知らない人の
 理解に資するのが註釈の目的なのは至極当然の事だろう。これは意味がない。
 もう少し言えばここにある表現では実際のところどちらも十分に真実を描写した
 ものとは言えないだろう。泉氏への非難は松永氏への非難の少し前にもあった。
 さらには時系列もおかしい。「泉氏の友人」への非難はインタビューの前の事だ。
 これら二つの註釈はこのように真実性に落差のあるものだ。しかしそもそも同じ
 事について二種類の註釈を別の頁に分ける意味が解らない。困惑を招くだけだ。
 二つの註釈に含まれる情報を一つにまとめ145頁と229頁からその註釈へと
 指示をだしておけばいいだけだからだ。二つの註釈相互にお互いを指示させて
 混乱させていいはずがない。情報の扱いを問題にした本として当然の事である。


 ついでにいえばCGMについての註釈を見れば解るように、二箇所に同内容の
 註釈があるものもある。そこからまともに考えればこの二箇所の別内容の註釈
 にはまあ何か意味があったろう。章ごとに執筆者が異なるからそこでの註釈も
 執筆者、その回のプレゼンテーターの主張が優先されたとか、ありそうな話だ。
 無論そうであったとしてもその点の明示がないのは何とも雑なやり方だろうが。


 さらに
 この本は「ログ」であると言われている。確かにこの本に出てくる問題を見れば
 そうした雰囲気はある。例えばライブドアについての問題などはそうしたものだ。
 しかし実際のところこの本をログとして十分だと考える訳にはいかない。ログの
 機能をざっくりと言うならマッピングにあると言えるだろうが、この本にはそれを
 成り立たせるための梃子がないのだ。その梃子とは正確な時間の記載である。
 つまり、その話題がいつの話題で、またそれについていつ話し合い、最終的に
 書籍の形態に仕立てたのはいつなのか。言及の対象について、言及の行為に
 ついて、そして言及の再現について、それがいつの事なのかが重要なはずだ。
 何故と言えばそれらが時間軸による事柄のソートを成り立たせるものだからだ。


 あるログの意味は他のログとの接続によって塗り替えられる。だからそれらの
 ログを接続させうる情報はログの中でも重要なものとなる。そしてログを接続
 させる情報の中でも時系列は特殊なものだ。それは信用に基づきつつ不動の
 ものとして扱われるからだ。時系列は基本的に自己申告で表される情報だが
 ほぼ誰もそんな来歴を疑ったりせず、それに従って情報の整理さえしたりする。
 その信用に根拠はない。あるとすればそれはそこで嘘をつくというものに余り
 出くわしてこなかったという経験程度だろう。その根拠のなさは無防備な信用
 である。それはここで書いた特定仮名と書き手の一対一の対応のように誰もが
 疑わずに前提視している事である。従って、この情報の操作は当然論外として
 この情報に不足のあるログは実際ログとして中途半端だといわざるを得ない。
 

 つまり、この本には本としての形を取りまとめる時点での不備が目立っている。
 この事が何を示しうるかといえば、せいぜいこの研究会の足並み程度だろう。
 その足並みは別に問題じゃあない。それは松永氏の問題とは関係ないだろう。


 ともあれ、事の移り変わる基点を探す意味ではこの本はやはり役に立たない。