「シャンドラの灯をともせ」

 さて。
 事には全て終わりがあるのでなければならない。それが覚めない夢でなければ。
 だがその事を伝えるにはまず迂路を経る必要があるらしい。そうであればまずは
 そこから見てゆきたいところなのだが、その迂路自体少々込み入っているようだ。
 従って、まずはその迂路に入るための予防線を引く作業から始めるようにしよう。

Back To the FUTURE

 さて。
 予防線は次のエントリ群についてのものだ。それを眺めて通り抜ける必要がある。
 それはそのエントリ群で扱われている事から自由にならなければならないからだ。
 その理由は次第に明らかになるが、端的に言えば党派性の懸念を払拭するため
 だとでも言っておこう。そしてそこでのエントリの問題点は端的に倫理の志向性だ。


 その事を知るためには少し時間を遡る必要がある。その入り口はここだ。ここから
 時間を遡る事がこれから事を終わらせるのに必要な過程となるだろう。何故なら
 これは前例だからだ。それは参照されうる記録だ。その蓄積は文化にさえ変わる。
 そして問題はそこだ。その蓄積が参照される事だ。その参照の時点だし、過程だ。
 その事を踏まえて、このエントリを振り返っていただきたい。そこで行われている
 参照は果たして何を目指したものなのか。その参照は果たしてどういう事なのか。
 それを量る規準は実際のところはっきりしている。それは当の参照項そのものだ。
 その参照されるべき記録が何を目指したものなのか。そことのズレが参照を審判
 する際の規準になる。無論そのズレが前例を昇華するという場合もあるだろうが
 同じ事でそのズレが前例を貶める事もあるだろう。だが今回のこの場合は後者だ。
 何故ならこの参照の仕方が全くの呪いであり、あるいは一望監視でもあるからだ。


 従ってここでその恣意性を指摘しなければならない。だがそれだけでは済まない。
 何故なら参照されている前例においては、人を過ちと過去に引き摺り戻して拘束
 してしまいかねない事が問題にされたからだ。その事に比べれば悪意の有無など
 さしたる問題ではないだろう。その機能に比べれば意志の有無などどうでもいい。
 意志が問題になるとすればそれはそのような問題をこのように掘り起こす意志だ。
 その恣意性についてはすでに述べた。だがそれだけではない。人を過ちと過去に
 縛り付ける意志が、あるいはそのようになった意志が問題になる。それはかつて
 あった意志が失われた事を示すからだ。かつて過ちと過去に縛り付けるものから
 人を解き放とうとした意志が、いまやそうではなくなっている事は全く問題だろう。


 だからここで期待するのは不断にその先を目指していた意志に再び立ち返る事だ。


No Man‘S LAND

 そして予防線の提示が終わって、次に問題にしなければならないのはここである。
 ここの問題はそれほどに明らかではないだろう。だが事の整理をすればおのずと
 見えてくる。まず前提としてブログでの表現が一時的にせよ存在と等価にもなる
 タイプの人がいるという事がある。そして、ここに重ねられている状況を紐解いて
 ゆけば、そうした人らが果たして何に晒されながら何に頼っているのかが解って
 くるだろう。ここで指摘されているのはある種の専門性と文化戦争のシーンから
 次第にマスに拡大する流れだ。そしてさらに重要なのは、ここで重視されている
 ブロガーのタイプがそうした専門性も持たず、かといってマスに回収されきるの
 でもないという事だ。彼らの特徴はここにある事である。その表現がその存在と
 一時的にしろ等価にもなりうるようなありようである。そうしたあり方からすれば
 そこでの共同体的志向も当然だと思える。同時性に開かれている表現であらば
 その表現が互いに結びついて繁茂し、やがて集まりを育む事は想像に難くない。


 そしてその表現は当人の単独性を露にする。だからそこには価値がある。交換
 不能であり、その対象にさえならないような価値がそこにある。しかしそうすると
 疑問が湧いてくる。それらの価値が不断に晒され続ける揺らぎをどう潜り抜けて
 ゆけるのだろうか。あるいはその防衛や抵抗はどういう次第で正当化されうるの
 だろう。もしその防衛や抵抗が共同体的な志向によるのであれば、およそその
 行き着く先は価値の喪失になるだろう。表現から結果的に現れたはずの共同体
 性が手段として必要になってくるのなら、そこで表現はもうそれ以前の切実さを
 当の共同体と引き換えにしているか、もうしてしまったと見做すべきだろうから。
 つまり慰めの群れが単独性を静かに密かに損なってゆく。問題はその損失だ。
 無論そこからマスの波に単独性が浚われてやがて消えてゆく事も予想できる。
  

 いずれにせよそれは防衛の手段としては本末転倒となる。防衛の手段自体が
 その対象をやがて損なうからだ。ブロガーたちの友愛は彼らを守る力ではない。


 だが実際のところ事はシンプルである。その他の手段が単独性を損なうからだ。
 つまり、逆に言って、その単独性、そいつ自身がそれらを守ればいいのである。
 勿論そこで孤立者同士の自衛合戦が新たに現れてくる事も容易に想像出来る
 事であるし、それだけではなくその当人自身のかつての記録が牙を剥く事さえ
 実際のところたやすく想像出来る事態である。一望監視とは全くそうする事だ。


 だからブログとは誰のものでもなく、そいつ自身のものになる事さえ、余りない。
 そのような中で何かを言う事について問題は色々あるだろうが、まず次に進もう。

Join the MAJORITY

 
 そして問題にするところは、ここである。ここでの結論が真実味を持っているとは
 思えないからだ。留保付きで語るしかないのだといったその結論自体はともかく
 問題はその留保を実際に実行する技術だ。それがなければこの話に意味はない。
 そうして参照する点はここだ。ここでの留保は実際のところ明白だ。それは事実
 そのものをさえ述べないほどに記述の展開を阻害している。記述される対象さえ
 具体的に明示されない事が、ここの奇妙な想像上の共存を可能にしている梃子
 である。その想像上の共存とは野蛮な人権侵害と民衆の声とやらの共存であり
 そのどちらもが解釈のレベルで選択されうると言う事、あるいは、そうした解釈の
 レベルで選択される「だけ」だとみる想像である。つまり事実の領分に切り込み
 より正確で正当な解釈に近づく道が、ここでは予め塞き止められてしまっている。
 だが実際の事例ではそういい続ける事など出来ない。判断はいずれ必要となる。
 それは、全ての事例が全く等価と言う事がないからだ。当の事例がどちらに属す
 事例なのかは事例の蓄積から明らかになる。それは解釈者の性向なんかでは
 どうにかしうるものではないだろう。どうにかしうるとすれば、それは全ての解釈
 そのものを拒否するしかない。そうでなければある事例についてどちらかなのか
 という分類が全く機能しない事などないはずだ。つまり解釈者の性向がどちらを
 より重視するのかという側面だけを述べながら、つまりその場で解釈されるべき
 対象を提示してもいないのに、他の立場へとものをいうのは行き過ぎた物言いだ。
 それは相手から「より厳正な解釈」の可能性を、つまり反論可能性を奪っている。 
 

 留保すればいいという事ではない。その同じ事が先にあげたエントリにも言える。

 
 ここでは神ならぬ身に厳密な審判が出来ないからといっているのだが、その誤謬
 可能性にどの程度迫真性が認められているのか、正直に言えば怪しいところだ。
 何故ならここでは単に留保付きで語るしかないとしか言われていないからである。
 そこでマスコミは恣意的に事実を切り取るという事が述べられていながら、実際
 では自分自身がどのようにそれを潜り抜けようとするのかについてほとんど何も
 語られていないようにしか見えない。留保すると言われても余り安心は出来ない。


 ここでは語る動機については留保なく素通りされている。次にここでは語る結果
 についても留保なく素通りされている。そして、ここでは語るという事態について
 さほど留保があるようには思われなくなってくる。まず動機について言えば語る
 べき事がないといいつつ語る事があるとするだけで済ませている。自動的に語る
 事が出てきている訳でもないだろうに、その動機について正直に明かす事もなく
 必要な留保が果たして出来るだろうか。何であれ、その目的に合う手段を考える
 必要があるだろうが、このようにその動機を正直に見て取った痕跡を示されない
 場合はなかなか是としがたいだろう。語る事の結果についても、自分で語る際
 についてはまるで問題にしていない。その結果をどう予見して何を予防するのか
 と言う先見性がなければどう留保するのかという規準はどこから出てくるだろう。
 そういった状態で留保つきでと言われたところでなかなか真実味は感じられない。


 殊に
 ブログで語る事について言えばその効果がどうなっているのか果たして書き手が
 自覚出来るとも限らないという事情があるだろう。その言及対象が沈黙を選べば
 その発言がどういった効果を与えたのかさえブロガーには解らず、ただ発言した
 記録ばかりが残される。無論そのブログを取り巻くマスの揺らぎは相変わらずの
 ままにである。事によるとブログでの評価が独走している事が明らかにならない
 ままかもしれない。だがそこでそれらブロガーらの言及の効果を明らかにすべき
 だといえばいかにも独占的であろう。そうであれば独走しつつダメージを与える
 発言をどうすべきかという事はおのずと明らかになってくるのではないだろうか。
 つまりブロガーらは単独で相互の発言を管理すべきという事になってくるだろう。


 それは例えば民衆の意志というものが民衆自身に作用しない訳もないからであり
 そのように意志を示すものにはその意志をもって他の意志を説得すべきだからだ。
 さもなくばその意志はマスの中の小さな一マスとして看過されてもゆくのだろう。
 無論そうでなくとも専門性に対する一個の意見が民衆の全体を代表するという事
 など滅多になく、実際に代表する際にもまた技術や修練が要るだろうから、まず
 ブロガーの意見をそのまま民衆の意志として承服する事など出来ないのだろうが
 それでもマスへの拡大の動きはあり続けるだろう。その評価は実際どうだろうと。
 

 無論それを拒否せねば自分自身の単独性を保ち続ける表現は出来ないだろうから
 それは選択である。そこでは多数派に加わる事は死ぬ事を新たに意味するだろう。
 

 
 いずれにせよ事には終わりがなければならない。その者の立場がどうであろうと
 それが民衆の意志であれば事々に意志が代表される必要があるだろうし、単独性
 から語ったのなら自身が発言する動機と結果についての正直さが要るはずだろう。
 さて。