「君の小宇宙は燃えているか?」

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 ブログ世界はフラットではない---「アルファブロガー」の孤独なセクトが生まれるわけ。: BigBang


 さて。
 BigBang氏のところでの話なんだが、ちょっぴり面白いといったところだろうか。
 それがちょっぴりなのは、この話には梃子がまだ欠けているからであり、さらに
 言えば、その書き落とされた梃子の影がこのエントリ自体に見えているからだ。


 その梃子とは端的に言えばフラットな人間、というイメージである。エントリでは
 一見この考えが退けられているように見えるかもしれないが、そう書ききれては
 いない。そのイメージはこのエントリの前提にすでに忍び込んでいたからである。


 その前提とは

モデルを単純にするために、アクセス数で考えてみる。

 という事である。ここにすでに各人の違いは忘れられている。さらに引用すれば

このモデルの中では、どちらの言論が正しいかとか、
説得力があるかということはひとまず考慮しない。

 というところである。ここに見て取られるべき前提的なイメージは読者の等しさを
 意味する。あるいはもう少し丁寧に言えばそれぞれ読者が何を考えようとも別に
 「大差はない」というイメージである。各読者相互に違いはなくフラットなものだと
 みなしてもよい、とするイメージである。勿論深い理由なんてそこにはないだろう。
 だがそのイメージがなくてはあのエントリの前提は出てこないものだ。数の前提
 となる単位が定められなければ数を比較する事には意味はないからだ。単位は
 等しさを前提にするからこそ、規準となるのだし、数値という規準をなすのである。
 砂糖100グラムというのは1グラムという単位ごとの砂糖に違いがないからこそ
 意味をなす数字である。これがそれぞれ一杯ずつ風味の全く異なる珈琲だった
 とすれば、単に数だけで比較する事の意味なんてたかが知れてもくる訳である。
 無闇に数を喫んでいるよりもどれだけ豊かに喫んだかの方が意味があるはずだ。


 つまり
 ここに示したエントリは読者らの単位化・数値化という形で最初からフラットな場
 というものに呑まれていたのだ。その雰囲気、あるいはイメージに呑まれていた
 からこそ言葉とは裏腹な推論が出来たはずだ。だがこの話にはまだ続きがある。
 

 何故なら
 ここでフラットな扱いを受けるのは読者だけだからだ。逆に言えば、書き手である
 個々人は読者とは別の層にいる事にされている。さもなくば書き手の価値を読者
 数によって測るという事は出来ない。そしてそこにあるのは読者の数に書き手の
 数が従属するというイメージである。だがそれだけではない。その固定化の意志
 さえそこにある。その表現に隠れてある。というのもそのエントリの前提に依ると
 説得力が読者を増やすという事自体説明出来ないからだ。つまりその前提では
 そもそも「アクセス数の多いブログ」というものが何故ありえたのかも解らない、と
 いう事になってしまうのである。そうするといよいよこの話の転倒は明らかになる。


 つまり
 「凄い人が読まれる」という道理が「読まれているから凄い」という具合へと逆転
 する。しかもその前提により、アクセス数が増える見込みなど最初から全然ない。
 従って、この前提に従う限り、アクセス数がすでに多いブログは安泰だという事に
 なる。「読まれているから凄い」という転倒した考えは、ここにきて「凄いから凄い」
 という終わりに至る。つまりこれは階級意識のバリエーションに過ぎないのである。


 勿論
 ここでBigBang氏自身そのように考えているとまでは言わない。ただ、その試論
 ではどうも事態の説明にはならず、むしろ事態に氏自身組み込まれている事すら
 表されてしまう、という話だ。そこでは読者全てに違いなんてないとする驕りさえも
 透けて見えてしまった。それは個々人の細分化でさえない。それは個々人の空漠
 化である。何故ならそこでは自分自身で凄いと感じる事さえもない事になるからだ。


◆関連エントリ:All One Way SYMPATHIES