「世界中の時を止めて 閉じ込めたいけど」

 さて。
 松永英明氏が語らなかったこと - 玄倉川の岸辺
 これを読むにどうしてこうもお手軽に批判っぽい言葉を投げられるのか疑問に
 思う。ここで論じられるそれぞれについてはほとんど当人の感覚によってそう
 受け止められた、と言う程の理由しか備えていない。実際はもう少し何らかの
 理由があるのかもしれないが少なくともここでそれが明らかだとは思えない。
 そして勿論『書かれていない」事についてはもう証明のしようなどありえない
 訳だが、ここで氏の言うような「臭み」などについては例示は当然可能である。


 しかし
 なお問題なのはこの文ではこうした経緯が踏まえられてないと言う事である。
 勘違いしてはいけないが、問題は「踏まえられていない事」である。あるいは
 より厳密に言えば「踏まえているような書き方になっていない事」の問題だし
 さらに言えば「踏まえて書いていると読者に解らせる必要性を認めていない」
 ところが問題である。それは端的に言えば読者に勝手なイメージを植えつける
 ような仕草だし、さしあたって言えば随分品のない行いだろうと僕には思える。


 勿論
 ジョナサン・ジョースターのように『本当の紳士を目指している』訳でもない
 その辺の人にとって気品の問題なんて問題ではないのかもしれない。しかし
 手記にまつわる顛末を踏まえない仕草は単に品がないというだけじゃあない。
 それは欺瞞だからだ。何故それが欺瞞であるかと言うと、この文ではそうした
 観点が「取られなかった事」が問題だとされているからだ。つまりその裏には
 「経歴を踏まえた観点で書くべきだ」といった考えがある事になる。そうすると
 また逆に言えば「経歴を踏まえた観点で書かれていない」と言う判断がそこで
 明らかにされていると言ってもいいだろう。そうするとそれを「書くべきだ」という
 判断を支えているのはその現状認識だという事になる。しかしそれは確かな
 ものなのかどうか。それが確かめられていなければ、意図の有無に関わらず
 単なる主張を通じて他人の事実認識を歪めてしまうようになってしまうだろう。
 それはおよそ他人に厳しさを求めながら自分には甘さを許すという欺瞞だろう。


 従って
 玄倉川氏は自身の提起する「彼には語れなかったのか」と言う問題に相応しい
 提起者たるのかどうかをまず読者と言及対象である松永氏に示す必要がある。
 単純に言えば氏は手記の顛末について「書かなかった」のか。それともそれを
 「読まなかった」のか。あるいはそもそも「知らなかった」のか。その上でそれを
 「探さなかった」のか。そんな事があると「考えもしていなかった」のか。そして
 それを確かめなければならないかどうか「解らなかった」のか。どれなのだろう。
 だが少なくとも現状で明らかになっているのは氏がその文章で「触れなかった」
 という事実であり、そことどうも噛み合いの悪い氏の主張があるという事である。


◆おまけ
 上のような次第で、id:Mr_Rancelot氏がここで言っている事は随分おかしく
 聞こえる。松永氏の文章が「十分には批判されてない事」こそ問題であろう。
 

◆20日追記:おや
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