「悲しみがそして始まる」

私は、そう、自由を知るためのバイブル


 さて。
 松永氏の本家ブログで以下二つのエントリを読んだ。相応に話題のようだ。
 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ[絵文録ことのは]2007/01/13
 2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ[絵文録ことのは]2007/01/15


 しかし
 そこでの読まれ方は余り十分に批判的ではないように思える。現状見える
 批判はおおよそ次の二つのタイプへと分類されきってしまう。その二つとは

・その掲示板への氏の理解が足りてないのではないかとする類
・松永氏の経歴を短絡させて、文全体を退けようとする乱暴な類

 である。
 

 勿論
 後者を批判だと呼んでいいものかどうかは考えどころではあるが、それは
 この文章の本題とは関係ない。この文章の本題は上の二つより批判的に
 松永氏の文章を読み解く事だからである。そのためにまず引用してみよう。

何故好き嫌いではなく、正義感なのか。帰属
意識からくる総体として括ることが出来ること
が何故正義感という結論「だけ」を導き出す
ことが出来るのかをお聞かせ願いたいのです。
 http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070115/1168789433

 このululun氏の文章は若干乱れており、厳密には意味がなかなか判然と
 していないと言うべきかも知れないが、およそ次のような意味になるだろう。

何故好き嫌いではなく正義感だと見なせるのか。
帰属意識と言う特徴で一まとめに出来ることが
どうして彼らの動機を好悪ではなく正義感だと
言う理由になるのか。他の場合は何故ないか。
 (j_m_w_tによる改変)


 そして
 この疑問に対してはまず松永氏の用語法を参照すべきだと言う事になる
 だろう。そこでは好悪と正義感とがどのような点で選り分けられていたか
 という事だ。そしてそれはここに明らかだろう。判断する者の名義が問題
 にされている。あるいはもう少し厳密に書けば判断「した事になっている」
 名義がポイントなのだ。好悪は個人が個人の判断として主張するのだが
 正義感は個人の判断が社会からのお墨付きを得るという形で主張される。
 勿論、ここで問題にされるような「正義感」が実際に具体的な社会の中で
 お墨付きを得る努力と過程を備えているとはとても思えない訳で、つまり
 個人の判断が社会からお墨付きを得た「事になっている」と言う点がこの
 問題にはある訳だ。そしてそこにある問題は主に次の二つになるだろう。

・社会の詐称
・責任の転嫁

 前者は他人への説得力を「必要な努力と過程を抜きに」得させるので
 問題であり、後者はそうやってズルした癖にその責任も負わない訳で
 より輪をかけたズルになるのである。そのズルの要点は利害の名義
 である。事実はどうあれ個々それぞれの責任で発言しようとするのか
 どうか、だ。「みんな」と言う名義を持ち出して他人の常識的な顧慮に
 つけいろうとする邪な説得の圧力と、判断の責任者を水増しして拡散
 させる問題回避能力とを使うかどうかだ。その発言の「帰属」の問題だ。
 その発言の責任が誰に帰属する事になるのか、という問題なのである。
 
 
 従って
 「そのように用語法を定めている以上」正義感と帰属意識とは最初から
 関連付けられていたと考える方がいいのだろう。それがそう意図されて
 いたかはともかくとして、その内実はそうであったと言うべきなのだろう。
 

 そして
 そのような用語法は同時に松永氏の発言と生活のスタンスを示さねば
 ならない。松永氏が正義感ではなくて好悪感情に基づいて発言しようと
 する時、そこではそういった責任の帰属についてのちょっとした注意が
 あると考えてもいいはずである。さもなくば松永氏は人に言うほど自分
 自身から「正義感」を削ぎ落とせてなかったという事になるからである。
 つまり、ここで事実上表現されているのは、そうした責任の宣言である。
 それがその言葉通りに実現されているのかどうかはまた個別に発言を
 追って確かめなければならないが、その意志が「働いている」という事
 まではここで明らかである。その意図や意識がはっきりしたものなのか
 どうかはまだ解らないが、そういう内実の発言になっているという事だ。
 

 従って
 氏の経歴を無闇に短絡させる向きはまずその意志を検証すべきだろう。



◆なお
 念のため言えば、ここでの批判は正義感にも好悪にも基づいていない。
 言葉の意味を出来るだけ正確に選り分ける作業によって見えてくる点
 についての文だからである。それは正当さというよりは真正さに関わる。