Checkers.

 

自分の理想の100点満点に合わないところを一生懸命ダメ
出しして減点していく人たち。それは実は、相手のため
ではなく、自分の完璧主義を貫くための自慰行為である。

http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20061220#1166589221

 松永氏のところなのだが、何か変な話だ。というのは、まずその意志が問題
なのかというところがあるからだ。善意でやっているならそれで済むとはきっと
松永氏も考えてはいないだろうと思えるが、そうするとここで言われる欺瞞的な
善意の問題は、単に相手を非難するために出されているだけではないかという
気になってくる。勿論それも意趣返し以上の意味は持たないだろうと思えるが。


 次に
 果たしてそういったチェックが完璧主義に由来するのかどうか、と言うところも
非常に疑問だ。そういったチェックをする輩というのは大抵が自分に甘かったり
するのではなかろうか。さもなくば、そもそも欺瞞的な善意に基づいて行動する
なんて事は恥ずかしくってとても出来ないだろう。そんなものは完璧さとはほど
遠いものでしかない。つまり、そんな動機を晒し続けるヤツを完璧主義者だとは
なかなか言いにくいだろう。言うとすればカッコつきの「完璧」主義者であるとか
あるいは「完璧主義者」とかであろう。その完璧を気取る半端な仕草がまずは
問題になるのだろう。それは、そこで引き合いに出される完璧さをも損なうから
である。そんな「完璧主義者」ばかりを目にすれば誰も正しい意味での完璧さ
なんて信じなくなりうる。つまり、そいつの欺瞞は世の中から価値を奪う行為だ。


 だが
 問題はそいつの性向なのだろうか。多分それだけではないはずだと思われる。

あくまで想像だけど、一昔前であれば人命に関わるような場合を別に
すれば、ネガティブチェックのような周到なコトを確実にやっていた
のは、一部の大企業と広告代理店くらいではなかったかと思う。
しかし今は、それをする側なのか、される側なのかはともかくとして、
社会人であれば誰でも経験しているのではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20061212/p1

 
 ここに見られるのはチェックリストの更新である。チェックする事だけであれば
それまでにも行われてはいた。それが至るところで見られるようになった事を
うまく咀嚼するのには多くの人間に新たにチェック能力が与えられたと考える
より、むしろ、それまで発揮されてなかったチェック能力が発揮されやすくなる
ようにチェック用のリストが更新されたと考える方が自然だと思える。その方が
このチェックの氾濫についての説明としては、うまく出来ていると思われるのだ。


 では
 具体的にそうしたチェックリストはどう変わったのかと考えるに、注目すべき
事はそのチェックリストの下限になろう。耐えられる最低限の状況の事である。
遊園地のトイレ、スーパーの接客態度、清潔さ。それらは全て最低限の事だ。
つまり、それが出来ていたからと言って特段の事はないのだがそれが出来て
いなければ問題にされるような、最低の限度だ。ここがチェックリストの変更に
際して問題となる。それは何も最近の人には堪え性がなくなってきているとか
いった話じゃあない。そうではなくてそのチェックリストが更新される具体的な
動きが問題を生むのである。ではその更新の動きを具体的に想像してみよう。


 まず
 それが始まるのは個々の人においてだ、と考えるべきだろう。つまりそれは
個々の人の考え方が少しばかり変わるところから始まる。それはそれなりに
意味のあるものだったり、単なる惰性であったりするのだろうが、それ自体は
別段問題ではないだろう。上にも書いたような堪え性がないかどうかと言った
問題は、本来この次元の事を問題にしているべきである。その個人に特有の
感性を対象とするのでなければ感性の問題に出来ないからだ。そして、その
単なる感性の問題はここで終わる。何故なら、それら感性の変更が個人から
多数に広まって初めて文化の問題になるからである。つまり、文化の次元を
問題にするにはその感性の広がる様子を見なければならない。それは、まず
「普通の人間」というモデルを経由する。それがイメージによる感化を行うのだ。
この事は実際の状況を考えれば理解しやすいだろう。普通の生活上で感じる
快適さについては特に理由なんてないし、勿論目的なんかもあるはずがない。
それはただそういう感じがしてしまうからそうなのだというだけの事でしかない。

 
 そして
 その「普通の人間」というモデルが出来てくるところに問題がある。何故なら
そこには理由も目的もないからである。そしてそれにも関わらず人間は変わる。


 つまり
 不快なもののチェックリストが新しく作られた場合にも、それが正当化される
見込みなど別にないという事になる訳だ。この事が問題として考えられるため
には次の事柄を指摘すれば十分だろう。それはそのチェックリストからは誰も
「原則的な除外」を受ける事が出来ないという事である。逆に言えば誰でもが
原則的には次の新たなチェックリストにのせられるのかもしれないと言う事だ。
そしてそこで新しいチェックリストにのせられたとしても、そのチェックリストが
別に正しい訳じゃあない。単に不快だ、と言われるだけなのだ。そこに意味は
あるのだろうか。なくはない。だがその意味を省みるのは誰になるのだろうか。
それはただそういう感じがしてしまうからそうだというだけの事でしかないのだ。

「何故・・・何故だアンダーソン君、何故・・・何故だ・・・何故こんな事を・・・
 何故、何故立つ・・・何故戦い続ける・・・。自分より大事なもののために
 戦っていると信じているからか?それが何か言えるか?解っているのか?


 それは自由か真実か平和かそれとも愛のためか?・・・幻想だアンダー
 ソン君。感覚の偽りだ。人間の劣った知性が意味も目的もなく存在する
 ことを必死に正当化しようとする束の間の幻だ。マトリックスそのものと
 同じように虚構に過ぎない。もっとも詰らん愛など作り出せるのは人間
 だけだがな・・・。・・・そろそろ君にも解っているはずだぞアンダーソン君
 ・・・! ・・・君は勝てない、戦う意味はない・・・。何故だアンダーソン君、
 何故そこまで戦う!」
「・・・自分で選んだからだ・・・」
 マトリックス レボリューションズ


 さらに
 重要な事実は、そのモデルが飽くまでも「普通の人間」のモデルであるという
事である。逆に言えば、例外的な人間については別のモデルを当てはめうると
言う事だ。つまりそれは社会的な保護の対象となるような者への無感覚をさえ
意味しうるのだ。その「普通の人間」についての最低限度が高止まりになるの
ならそこにまだ届いていない人については別のモデルを使うようになるからだ。
従って、ネガティブチェックが問題にされるような状況が国などによる最低限の
生活保障をよりよくするような事は決してないのだろうし、それでいてそこでは
自分がネガティブチェックの対象になったり、あるいは自分自身を自分でそんな
チェックの対象にしてしまったりする人が現れうる訳である。そしてそこに意味
なんてあんまりない。ただそういう感じがしてしまうからそう感じるだけなのだ。

「あなたはここに決めに来たんじゃない。もうとっくに決めてる。
 ・・・・・・あなたが来たのは、何故決めたのか理解するため。」
 マトリックス リローデッドより、オラク


 だが
 人々がモデルの変更に自覚的になった場合は、きっと話が違ってくるはず
なのだ。そこでなされる判断にならばせめてもの意味が必ずあるからである。