All One Way SYMPATHIES

「私の一番の利点は、大勢の『私』だ」
 マトリックス リローデッドより、スミス

 

みんなのルールというとき、みんなが前提化しない。
みんなのルールの妥当性や実効性はルールと実装で
みんなの利益として結果的にわかるからそれでいいじゃん、的。
 Web2.0的な民主主義的な何か - finalventの日記

 
 おそらくは素でこう言っているのだろうと思われるが、これはほとんどトリックのようだ。
というのは、ここで言われている「前提化しない」と言う事が結局のところ限定的な意味
しか持たないからだ。現実的には前提化されているも同然と言う事にもなりうるし、その
危険が無視できるほど小さいものだとはとても思われない。特にここではその危険が全く
ないかのように書かれてしまっているために、むしろその点に注意が要ると言えるだろう。
それはここで書かれている事が時代の分析にもなっているからだ。あるいはある世代の
分析だというべきかも知れないが、どちらにしろ問題は広く社会に関わる事とされている。

 
 そして
 注意しなければならないのは「結果的にわかる」と言う言葉である。それは誰にとって
自明になるのかと言う点が考えられなければならない。それは、勿論、厳密にはここで
描かれるようなルール主義者たちにとって、と言う事になるのだろうが、理路を言うなら
それは「みんな」に解ると言う事になっているはずだ。その期待があればこそ「みんなの
ルール」という名を与えられているはずである。その「みんなの納得」を先取りする形で
そのルールは「みんな」の名義を許されている。「結果的に」「後で」誰もが納得出来る
「だろう」という期待がこのルール主義にはある。そのタイムラグに注目する必要がある。


 何故なら
 そのタイムラグがあるイメージの機能を意味しているからだ。そのイメージとは、ルール
主義者個々が抱く「みんな」のイメージである。そのイメージは約束された納得が現実に
起こりうるものだ、と期待させるために要るものだ。「みんな」とはこういった人たちだから
こうしたルールなら「きっと」納得してくれる「だろう」という期待がなければ、ルール主義
者はきっとルールを提示する事さえしないだろう。勿論この事はまだそれほど問題には
ならない事だ。あるイメージがルールの提示に際して前提にされるという事だけならまだ
問題にならない。問題になるのはそれがルールの提示に関わるだけではないからである。


 端的に言えば
 それはルールへの判断に関わる。「結果的に解る」というその時に作用するものもまた
このイメージである。ルール主義者個々が抱く「みんな」のイメージが再びこの時に作用
する。そのイメージがなければルールがうまく機能しているのかどうかが解らないからだ。


 そして
 そこでは何が起こるのだろうか。あるイメージに基づくルールが、当のイメージによって
判断されるという循環である。勿論現実にはそのルールの提示と判断の間に時間差が
ある。その時間を通じて当のイメージが少しは変わると期待する事なら難しくはないかも
しれない。しかし重要な事は、そのイメージが何によってなら変わりうるのかという事だ。
それは議論によって変わるのだろうか。何か原理によって変わるのだろうか。それはない。

こうした世界になにが欠落しているかというと、ルールを規定する原理
みたいなもののべたな暴力的正義なんだろうと思うが、まあ、そんな
もの欠落していていいんではないの、お・わ・り的になってしまう。
 Web2.0的な民主主義的な何か - finalventの日記

 
 では、一体何がイメージの改変を引き起こしうるのだろうか。さしあたり思いつくのは
二つ。一つ目はイメージそのものであり、二つ目は感性である。しかしこのどちらにも
問題がある。前者には操作の危険があり、後者には無関心の危険がありうるからだ。
というのも、ここで問題にされているイメージとは、ともかく「みんな」のイメージだから
である。それがイメージによって変えられるという場合、現実に起こる事態はイメージ
への回収合戦になるのだろう。それはルールの提示と判断のタイムラグを考えるなら
解りやすい事だ。自分たちの提示したルールが「正しかった」という過去形の言い方を
それが可能にするからだ。ルールが提示された時にはそれほど共有されてなかった
イメージであろうと、それについて判断が下される時点までに当のイメージに人を回収
しさえすればいいのである。より正確に言えば、ルールの提示時点ではどうであろうと
ルールについて判断が下されるまでに当のイメージを広められれば、それは最初から
正しかった「事になる」。正しさはそこで後出しされる。あるいは事後的に作られてくる。
この事は、ルールの提示者に印象操作の動機を与える。言うだけ言っても後の事など
イメージ次第でどうにだろうとなしうるからだ。そこでは恣意も正しい事に仕立てられる。
ここにおいては「みんな」というものの前提があろうとなかろうと大差などなくなってくる。

 
 さらに
 重要な事は、ここで梃子とされるイメージが「みんな」というもののイメージだという事
である。端的にはそれが数の多さに応じて意味をなすという事だ。一人でも多くの同意、
一人でも多くの支持を取り付けさえすればいいのである。そこで正しさは支持者の数に
従属してゆく事になる。いずれ後で来るルールへの判断を左右するのはその数なのだ。

 「我々には勝てない。」「加われ。」
 マトリックス リローデッドより、スミス


 そこで
 感性の問題が浮上する。イメージへの回収が現実には正しさの争奪戦になるからだ。
そこではイメージへの回収から逃れる手段も必要になる。そこで感性の問題が現れる。
というのも、加わる事を拒否するためには当の「みんな」のイメージが自分に対しては
合致しないと言う必要があるからだ。そのように自分は感じない、という言い方である。
あるいはもう少し言えば「そう感じる人もいる。だが自分は違う。ただそれだけだろう」
といった言い方である。これは自他に横たわる権利上の断絶を濫用する言い方だろう。
何故ならこの言い方があらゆる説得を回避するように言われるものだからだ。そこでは
全ては無駄である。その感性に関する発言が事実なのかどうかなど誰にも解らない
からであり、もう少し言えば解るべきではないからだ。細かく見るなら発言の精査から
その嘘を見抜く事も場合によってはありうるが、操作の問題を考えればそれさえあまり
いい事だとは思えない。だがこの感性の問題にはまだ少し深みがある。それはそれが
自他にある権利上の断絶を濫用させるからだ。感性の違いを言い分にして適用される
ルールから逃れるような振る舞いから人間のつくりを理由にするまでは後一歩であろう。
それが果たして原理に基づく暴力的正義と呼ばれるものより優しいだろうか。おそらく
そうではないだろう。勿論そこで優しさの意味さえ作り変えてよければどうとでも出来る。


 そしてしかし
 ありうる希望はやはりそうした感性に関わる。それは与えられるイメージを潜り抜けて
現実を捉える能力だからだ。そこには与えられるイメージを逃れる可能性がある。そこ
にはなおも真偽の区分が残される。イメージに含まれる嘘を微細な差異から見抜くのだ。
そうしなければイメージを駆使した正しさの争奪戦から逃れる事など出来ないだろうし
感性の違いを言い分にして説得から逃れようとするものの野放図も止められないだろう。


 従って
 もしそういった危険に抗うべきだと考えるのなら、高貴さこそが必要になると思われる。
他の者からはいつも独立してあり続ける事。しかし他の者の真実の姿について気を配り
続ける事。その高貴さが必要だ。人は自由であるべきなのだ。自由が人の尊厳を意味
するからだ。この事は、僕の見るところカントとニーチェの名で指示されるべき事である。