彼方まで光を

 さて。
 法律をもって倫理に代えようとする意見「もどき」はネットではよく
 見られるものだ。法的に許容されているから云々、法的に許容
 されないから云々。これは実際幼稚である。法律はルールだが
 ルールブックを読んでても何がファインプレイなのかは解らない。
 その精神を理解する事は、単に精神論的なだけの事ではない。
 

 で。
 まず、eshek氏が公開の場に戻ってきている。一つづつ見れば
 少なくとも最新のブログでは意見のぶれも見られないし安易に
 党派性に絡め取ろうとする向きにも毅然としている。だが大筋で
 どうすべきかという理路があいにくまだ見えてこない。その上で
 現状非公開ではあるが次の部分を再引用した上で批判しよう。

今から考えるとBigBang氏の「意図」、つまり
攻撃の意志はないことを理解するだけで松永
氏はかなり心理的に楽になれたのだと思う。

http://d.hatena.ne.jp/al_amal/20080109#1201306649
http://d.hatena.ne.jp/psycho78/20080130/p2

 今Bait_Assalam氏がこの発言をどう思っているのか知らない
 が問題は明らかだ。法の仕組みを理解する事とそれに納得も
 する事とでは全然違う。そしてここでの場合重要なのは後者に
 含まれる心理的な安定感だ。とりあえず理解はするくらいなら
 おそらく楽にはならなかっただろう。それが何故なのかはまた
 別の話だ。喩えるなら砂糖を溶かすのには砂糖が溶けるまで
 待たなければならないような事だ。その時間には実際理由と
 呼べる何もないだろう。ただ消極的に何がそれまでの時間を
 費やさせたのか言えるくらいだ。だから、抽象的な大義をまず
 かざす事よりも、自分の何がそこで凝固したり溶解したりして
 いるのか、の方に心を配っているべきだろう。要はぼちぼちだ。
 

 そして次にeshek氏からal_amal氏を経てBait_Assalam氏
 までという一連の流れを受けてBigBang氏の回想が出ている。

どちらも相手に対して謝罪はしていないが、侘びの
言葉を言わないことで、信頼関係を形成するのに
障害になったと思ったことは一度も無い。

謝罪ということ - AnotherB

 だがこれはおかしな話だ。それがどういうものであれ現状で
 信頼関係がまともに継続形成されているとはあまり思えない。
 そして何か詫びや謝罪が介在するような関係だっただろうか。
 そういう個人的で秘私的な関係なら、何故こういう公然とした
 場でやりとりがなされるのか。あるいは、公然としたこの場に
 ついて個人的な関係によって終止符をつけるつもりなのかも
 知れないが、それが成功しているとはとても言えないだろう。
 少なくとも、片方の側が場にいなくてはそういわざるを得ない。


 何より、こうした状況で「期せずして我々は」とか言ってしまう
 ところには突っ込んでおかなければなるまい。そうして相手を
 イメージ付けて事の是非を見る態度は誠実さから遠いだろう。

持続と同時性

 ・・・奴らめ・・・ボイコットだぞこれは・・・
 ジスイズベリーボイコット!システム!*1

高橋一郎『バレーボール使い郷田豪』3巻

 さて。
 昨今の似非倫理批判って浅薄だと思う。人の代わりにシステムが喋る訳
 ないのに、議論の過程にはそいつなりの聖化が介入したりもしてくる訳だ。
 世の中にそういう人はいるし、そういう人だってまっとうに生きているだろう
 から、特に問題が現れ出てない限りはむしろ叩こうとする側が軽く見える。
 話は唐突なようだが実際のところそうじゃあない。これは問題の枕である。


 問題は正義の問題をシステムの問題にするのは間違いだと言う事にある。


 そうしたスタンスは全体を俯瞰して八方うまく丸めるような事を考える類の
 ものである。それは思考の自発性を稀釈させるもので事が終わるまでの
 傍観を心理的に後押しもし、もう少し言えば逆に傍観から後押しもされる。
 逆に言えば、それでは問題の最中にそれをとめる事が出来ないのである。
 
 
 その事は例えば俗に匿名論議だか談義だか言われる恒例行事がほぼ
 議論自体を回避しながら停滞し続けている様を見れば解るように思える。
 それが議論を回避していると言うのは例えば次のような事だ。そこでは
 「何を言ったか/誰が言ったか」といった相変わらずの「便宜的な区分」
 が何故か前提として保存されている。だがその前提は問題の本質から
 十分に咀嚼された上で意識的に保持されているのではないはずである。


 何を言ったか、という過去への疑問は当然ある程度の時間的な経過を
 前提にしている。だがそれは「何を言ってきたか」というほどにまで幅を
 持つものだろうか。何をどこでどう言ってきたのかという追跡は最終的に
 そいつの識別に至る。つまりそいつが誰かというところにまで到着する。
 いわゆる名無しである不特定名は一個の発言分しか射程を持たないが
 固定ハンドルなどの特定仮名ではその仮名を使用した際の発言分まで
 射程が広がる。そして特定仮名ごとで何を言うのか全く変えられるなら
 狂言も容易くなる。かといって、ある程度発言に持続性を求めなければ
 その内容を理解する事から難しくなるだろう。一口に言ってしまえる事
 なんて限られている。補足説明出来ない状況での説明は苦行に近い。
 発言に持続性を、その権利と責任を与えなければ言いたい事がまるで
 言えなくなる事だってあり、これは少し考えれば解る事だろうと思える。
 

 ではどうすればいいかというところで話は始めに戻る。こうして問題に
 取り囲まれた時、何故か知らないがシステムによる解決を求める人を
 よくよく目にする。だがそれは問題に対するよくない態度だと思われる。
 何故ならそれでは経験を伝えられないからだ。想像が一個人の経験を
 越え出る事がなくなる。それでは経験則は独我の檻を出られなくなる。
 苦難に対処するために誰もが苦難に遭わなければならなくなるのなら
 それは苦難に対処しているとは言えないだろう。倫理は金科玉条では
 ないというのは正しいが、だからと言ってドグマティックにそんな誤りを
 突付いても詮無い事だ。そんな態度は、むしろ倫理のボイコットである。
 

 ところでpsycho78氏の言及部分だが、こっちはすでにそれに応えて
 いると思う。具体的にひくと「おおもとの発言が嘘だと敢えて仮定して
 差し上げる要などない」というところ。組織がなかろうとそれはそれだ。
 僕が示しているのは「もうちょっと右だったらストライク!」というライン
 だが、この場合はその発言が嘘でもそうでなくともどっちでもよくない。
 

*1:シットとガッデムを組み合わせた造語(ミヤタオリジナル)

まわるまわる

 きれいな矛盾だね はたからみれば

中島みゆき『MERRY−GO−ROUND』

 さて。
 事の始末は年明けを迎えてなおその気配を見せない。だがこれが問題の
 沈静化を意味する訳ではない事には、今更ながら注意しておくべきだろう。

 
 この事は、例えばeshek氏のコメントが公開許可されている事を見れば
 解るだろう。コメント欄の一番下に書かれているように、そのコメントには
 単に書き手の意志のみならずブログオーナーらによる承認も刻印されて
 いる事になる。つまり、当のブログは放置されていない。すでにここでも
 予示しているように原則的に全て承認される、という事もないようである。
 となると今の停滞が撤退を意味する事はないと考えるべきように思える。


 そこに意図や意味があるのかどうかはともかく、利用可能な図式はまだ
 この場に残されている。たとえ図式の機能が使用されない限りは次第に
 図式そのものが見えにくくなるとは言っても、その事がそういった図式の
 存続を正当化する訳では決してない。むしろ話は逆だ。いつでも誰でも
 利用可能な図式の潜伏はやがて固定化に至るだろう。それは正当化と
 正反対の方向だ。そうした図式の固定化こそ予め何らかの理路で正当
 化されているべきなのであって、図式の固定化をもって、図式の正当化
 ででもあるように考えるのは錯誤の極致だろう。勿論、図式の安定化が
 事の解決なんかとは程遠いのは今更言うまでもない事のはずであろう。



 金持ちはそうでないものにただ近づかない事で自身との差異化を図る。
 金持ちではないものがするようにわざわざ自分の意志なんて示さない。
 

 いま行われているのはそういう事だ。行っているものたちにそういった
 意図があるのかないのかはどうでもいい。そうした意味があるからだ。
 そこから降りる方法は限られている。続けたくないのなら終わらせるか
 逃げ出すかどちらかだ。その図式に自分自身を配置したままでいる事
 にこそまず気がつくべきだ。現状維持は問題の深化を意味するのだ。
 

 そして逃げる方法は明らかだ。この図式そのものを利用しえない状況
 へと自分自身を追い込む事だ。つまり少なくともその図式に参加した
 際の経路を自分で除去する事であり、それを公然と明示する事である。
 そして終わらせるためには少なくとも図式に参加した事について明示
 的に内省し公開する事くらいはすべきだろう。少なくともその程度は。

 
 それ以外は、たとえば、ダメージの総量を見比べるといった事をしても
 少なくとも無意味である。それは口火を切った側を忘れる事になるし
 口火を切った理由を無根拠に正当化する事にもなる。勿論、いずれか
 一方が己を忘れる程である場合にはその限りでもないだろうが、今の
 場合はそうではない。内省する時間はあるはずだ。そしてダメージの
 総量を天秤に掛けるような振る舞いがその正反対であると知るべきだ。
 それが悪意ある図式の維持に餌を与えていると言う事を自覚すべきだ。
  

Going MERRY!

 さて。
 事の始末は終っていない。ただそれは意志も意味も欠いたままでなお続く。


 しかし
 事の始末が結局未だ済んでる訳ではない事も決して次の問題が来ない事
 など意味しない。その事を示す為にかつて松永氏の問題に口を挟んでいた
 人らが別の問題に集っている様を概観しよう。それは全く馬鹿げた問題だ。


 僕の知る限り経緯はこうだ。seijotcp氏の実名が幾人かの手により同時
 多発的にwebに晒されたのだが、その事を発端として、はてなキーワード
 「実名原理主義」を巡る編集合戦が行われている。解決の目処はまだだ。


 だがここで見るのはその後半部分だけだ。seijotcp氏の実名については
 それを晒す事に何の意味もなく、むしろダサい事だと思うくらいだ。それは
 氏をほとんどダイレクトにさすヒントが既に一般書で公開されていたのだし、
 特定人への学的接触をあれほど書けば相応に絞られても仕方ないからだ。
 つまり氏の実名如きは暴かれるにも値せず、暴く事は全く無意味でダサい。 


 しかしはてなキーワードの問題はそうじゃあない。そもそもの発端に重大な
 事実誤認が含まれているし、その継続が密かな仕方で行われ始めている。


 その事実誤認とは小倉弁護士実名原理主義者ではないどころか、単に
 実名主義者であるとさえ言えない事にある。小倉弁護士は松永氏の実名
 晒しに明確に異を唱えていたし、その説得は十分に効を奏していた。勿論
 氏にある因縁が多少氏の説得をバックアップしたと常識的には差し引きも
 するべきだろうが、事実はそうだ。記録もある。忘れている人もいるのかも
 知れないが、僕は覚えている。そして記憶すべき事はそういう事のはずだ。


 さらに、ここでの言い争いについてはトニオ氏と小倉氏が正しいと僕は思う。
 というのは、ここでの話を見る限りはキーワードの存続条件が満たされては
 いないからだ。その満たされていない条件とは「改変をする意図の説明」だ。
 ekken氏は、すでに明言しているように、このキーワードが悪意ある揶揄の
 意図を意識的にせよそうでないにせよ孕んでいた事までなら認めるだろう。
 問題なのはその次だ。氏の対応は「具体名の削除」で事たれりとしたのだ。


 これでは実名を書かない代わりに「ちょっとだけ明かすことにする」のと大差
 ないものではないか。なんだこのりくつ。悪意ある誤用どころかダイレクトに
 悪意ある用法でキーワード設定されたと言ってさえそう過言でもない単語だ。
 存続を求めるのなら、相応にその「悪意ある用法」への注意と配慮を行った
 上、なお存続が望ましいと説明出来なければなるまい。それが出来てない
 以上、キーワードに込められたちょっとした悪意の尻馬に乗りたがっていると
 見られても仕方がないだろう。そうした尻馬ライダーの放置についてこうした
 エントリを挙げているkyoumoe氏がその辺に突っ込んでいないのは残念だ。
 無論トニオ氏の説明不足もまあ否めないが、存続に足る正当な理由がある
 とも僕は思わない。そもそも特定人を名指しして作られた来歴を十分に承知
 しておきながら単に名前だけ消せば解決すると言うのは人を舐めた対応だ。


 で、最終的にはこの案がベストだろう。土台、本当に一般的な単語であれば
 キーワードにしなくたって誰もが知っているはずだから、その辺は必要ないし
 全然使われない語もやっぱりそんなの必要ない訳で、キーワ−ド化すべき
 単語は結構絞られている。それは探せるものなら探して意味を確認しようと
 色んな人が思う単語だ。辞書を引くよりグーグルよりも簡単に確認できれば
 時々誰かが参照しようと思う単語だ。つまり参照項が安定出来ていないなら
 意味をなす事はない。明らかに論争的な単語も、そう公にはされてなかった
 個人の実名もどっちも安定した内容確認には適していない類のものだろう。
 一定期間に一定数以上改変された語は一旦編集も閲覧も出来なくしといて
 その後改変者双方の言い分を別の場所で十分に吟味するとかすべきだろう。




 ところで
 松永氏の問題にまた変化があった。まずMr_Rancelot氏がはてなIDごと
 消えている。そしてeshek氏のコメントが随所に出されてきている。これらの
 事はすでに半月以上前から知られた事だったが、その辺は別のエントリで。

 
 ◆同日追記:リンクミス修正

Freed ISOLATION

それはないぞ・・・!
(It's not fair…)

マトリックス・レボリューションズより、スミス


 さて。
 事の始末はなされないまま、だがすでに現状の黙認はなされていると
 言ってもいい頃合であろう。そこに見るべき事は度し難く忌むべき混同
 である。自分自身の極私的な内面と、表に現れた事象との混同である。

 
 さてこの度し難く忌むべき混同について、さながらあつらえられた例とも
 言うべきエントリがあった。まずはその根幹と言うべき部分を引用しよう。

生まれついた理不尽に怒り、生まれついた
特権に妬む、世界への呪詛がなければ、
奴隷は鎖につながれたままであっただろう
し、フランス革命も起きなかっただろう。

人の世の幸不幸を努力だけで見る者ほど、
貴族にとって都合のよい者もなかろう。

http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071117/p1

 ここに見るべき混同は明らかだ。さながら革命のためには嫉妬が必要と
 なったかのような転倒した物言いがまずある。しかしこれでは結果論だ。
 つまり今後の個々のそうした反感が何らかの結実をもたらすとはとても
 言えないにもかかわらず何か無責任な旗振りがなされてしまっている。
 少し考えれば解る事だが、自由になる事と自由な誰かを妬む事とには
 別に関連はない。障害を取り除く事とその当の相手に成りたがる事は
 全く別の事だ。勿論後者への努力が前者を与える事ならありうるだろう
 が、それがたまたまの事でないというためのハードルはごく高いだろう。

 
 次に世界への呪詛なるものも全く混同であると言うべきだろう。それが
 その名に値するものでなければ全く混同の結果だというしかないだろう
 が、逆にそれがその名に値するものだとすれば、それが革命を経た後
 解決され解消したともとても思われない。つまり妬むもの自身にとって
 当の革命という結果がいかなる意味を持ちえたのかという観察が全く
 欠けているのに、単に歴史的な事象を結果としてしまっている。ここに
 神様ごっこの下劣さを見るのは難しい事でも不当な事でもないだろう。


 さらにご都合について言えば、妬みに因って奪う者盗む者にとってさえ
 妬みを持たないどこかの誰かは都合がいいと言えるだろうに、何故か
 ここにはそんな公平さが見えない。それが何のご都合かは知らないが。
 
 
 そして最も見やすい混同は妬む事そのものにある。それは自と他との
 幸福を可能性の領分ででも混同しなければ有効にはならない。当人に
 固有の幸福というものを排して、少なくともそいつにも自分にもありうる
 幸福なるものを想定しなければならない。それはありうる幸福に限界を
 設定させる。当然妬みの頻化・深化はそうした限界設定に餌を与える。
 努力すれば報われるとの信念も喧伝されるには牧歌的だが、こうした
 嫉妬を対置する事が果たしてどれほど違うだろうか。まあ疑問である。


 いずれにしろ確かな事はそうした嫉妬が自分自身に組み込まれている
 力の見極めを妨げると言う事だ。それは他の煽動と同じく、有害である。
 それは、マトリックスから出たがっていたはずのスミスが、結局のところ
 マトリックスを「自分の世界」と呼び、なおそれを「虚構」と呼んだ事にも
 似ている。彼は、狂わされた力に自らとその自由とを見失っているのだ。

誰もフェアとは言ってない。タンクとドーザーは
死に、オレは生きてる。カズはフェアだと思うか?

マトリックス・リローデッドより、リンク

Plug DISSOLUTION

君のおかげで私も生物の目的を認識できた。生物の目的は死ぬ事だ。

マトリックス・レボリューションズより、スミス

 さて。
 始末はいまだ果たされていない。それは全く遅延させられたままである。
 その事はすでに状況の追認か、もしくは黙認だと認められるべきだろう。
 そしてそれがかつて掲げられていた大義と一致するか。非常に疑問だ。


 ところで
 公共性、正当性、そして暴力の問題を扱う次のようなエントリ群があった。
 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071106/p1
 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071107/p1
 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071108/p1
 このエントリについては色々問題があり、殊に最初のエントリに対しては
 すでにブックマーク上でもいくつかのツッコミがなされている。しかしその
 ツッコミは決して十分なものには思われない。最後の日付に書き手自ら
 ブックマークで述べるように、根幹に関わる部分での反論は見られない。


 まずは、その根幹だろうと思われる部分をいくつかピックアップしておこう。

福祉の中に公共の介入によってのみ達成できる
暴力性があること自体は認識しておく必要がある

http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071108/p1

公共性の貴族の特権が、その弱者性にそもそも由来するように
見えても、根本のところはそれを正義と見なす者の数が物を言う

http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071107/p1

 しかしこれは誤りである。何故誤っているかと言えば、これが弱肉強食を
 想定出来ていないからだ。これは平等な人間という観念を先取りしている。


 この事を理解するためには次の例を考えてみれば解りやすい。ジョナサン・
 ジョースターは人間の内で強力である。勿論その彼でも10人がかりなら
 きっと倒されてしまう事だろう。だが三・四人を引きずる事なら出来ていた。
 あるいはマヌケが千人集まればマルクスやカントなどに匹敵するだろうか。
 いずれにせよ、弱肉強食であれば人間の頭数はその差異と関連せざるを
 えない。つまり数が直接的な問題解消因子となるとはとても言えなくなる。

 
 それにも関わらず、Mr_Rancelot氏は数をのみ問題にしている。ここには
 各人の差異を捨象し単位化する力がすでに作用している。数は力ではなく
 その結果なのだ。そしてその結果を力だと誤認する事には錯誤を見るべき
 である。それは現今の公共性の出現因を公共性そのものに求める錯誤だ。
 それは実際のところ、現今の公共性を天与神授のものだと見るにも等しい。
 人間を単位化し一般的な人間と言う観念の渦に各人の差異を回収させる
 べきだ、という考えが密かでありつつも確かな前提とされているからである。
 

 勿論、説明された理路としてそうなっていると言う事とその発言者の本意
 とを短絡させるような事をするつもりはない。しかし次の指摘はしておこう。
 それは公共に伴う暴力性を何故問題と見たのか、この理路では説明不能
 だと言う事だ。弱肉強食ではなく現今の公共性を結局のところ是だとした
 理由もまた見失われる。そしてその構成力を見失われた公共は暴走する。

 
 公共性の出現因を公共性自身に求める事は公共性の手綱を手放す事だ。
 それはさながら、死を賭して戦う意味を理解出来ないスミスにも似ている。
 生物の目的が死ぬ事にあるとすれば、何故道端でやがて死ぬのではなく
 戦う事を選んだのか。彼にはそれが理解出来ない。彼は人間を知らない。

私は一番大切な事を覚えている。我々は今生きている!

マトリックス・リローデッドより、モーフィアス

 
 さて
 そして公共性の出現因だが、それは要するに高貴さから来たと思われる。 

VLAD evolution

 さて。
 状況は相変わらずである。どこの誰とも確認の取れないものたちによる
 確証のないお話が続いているようだがそれは扱われるに足りない事だ。

 
 従って
 問題は名を持つ者の始末の具合に限られる。現状でなお始末を残して
 いるものは五指に至るかどうかである。なお、ここで言われる始末とは
 公共性を盾にした事の説明か撤回である。勿論、そんな大それた事は
 言っていない、という言い方もありはするのだろうがそう発言する資格を
 誰が持っているのか正直に言えば疑問ではある。すでに何度も書いて
 いるが、BigBang氏にはその言い逃れの余地はないと見るべきだろう。
 そうでなくとも公然と他人に公共への説明を求めたのなら、その時点で
 自分自身の単純な私性の枠から出てきているのだと自覚すべきだった。

 
 その意味で、BigBang氏が自身のエントリの見直しについてを単に自分
 自身の内面だなどと言っていた事自体度し難い公私混同でしかないが、
 その時点からさえすでに二ヶ月がたち、BigBang氏は何やら他の問題に
 手を出しているようである。節度なくふしだらな事だと言われるべきだろう。
 

 そのふしだらさは人を煽動するのに十分である。大義ををのみ唱えその
 内実をよくよく説く事もなく、そこへの質問にもろくろく応えられないまま
 だからである。その煽動はノイズを弾にも盾にも変える。だからそこへの
 始末が重要だ。それがなければ、他人の心血を自己満足のために吸い
 上げただけだという事になってしまうからだ。その結末の前にあってその
 意図などもはや全く関係がない。すでに個人的な私人の問題などでは
 ないからだ。他人を巻き込んでいるからこそ問題が出てきているからだ。
 

 それをこの期に及んで放置して二ヶ月。そろそろ見限るに足る事だろう。