Frat DEVOLUTION


 さて。
 佐々木俊尚氏の「フラット革命」について一通り考えがまとまったので書こう。
 この本が問題にしているのは一口には権力の発散である。かつては構造に
 集権されていた力の分散である。この本で集合知が問題にされているのは、
 それが発散する力を継ぐ、継承者の候補に見えるからだと言っていいだろう。


 だが実際それは継承者としては不十分である。それが何故かという分析を
 通じこの本は主題である私性の問題に至る。少し踏み込んで言えばこれは
 むしろ個体性と言うべきだろうが、まずはこの本での扱われ方を引用しよう。

「個」というのは、そこから互いに交渉し、調整し、議論しあって公共性を
立ち上げていくための「私」の書式でなければならなかった。つまりは
個の確立こそが、公共性につながっていくという考え方である。

佐々木俊尚「フラット革命」131頁

 ここで佐々木氏は次のように問う。しかしこの設問はおよそおかしな疑問だ。

では、
<わたし>の集合体は、永遠に<公>にはつながっていかないのだろうか?

同上

 この質問がおかしいのは、まずネットを一様に私性の集合と決め付けている
 からだ。だが実際のところネットにはそんな枷などない。ネットには極私的な
 文章が表されている事は認めてもいい。しかしそれしかないかどうかは別だ。
 

 その事は佐々木氏自身指摘しているはずの事だ。松永氏の件に関して見ても
 佐々木氏や泉氏への批判が単に私的な領分から出てきたものだけではないと
 佐々木氏自身解っているはずだ。それは個を通じ公を臨むものではなかったか。
 そうだったからこそ佐々木氏はBigBang氏らの正当性を認めたのではないのか。
 しかし佐々木氏の結論はむしろ公然性と私性の結託に「公」を委ねるようである。

浮遊する<わたし>の膨大な集合体は、相互にダイレクトにつながり、情報を
交換していく、相互システムとして形成されつつある。そして、もしこのような
神話システムが発達していくのであれば───その枠組みの中では、その
やりとりそのものが、<公>としての責任を実現していく枠組みとなりうるだろう。

前掲書、271頁

 ここでは公然性こそ私性を公共性に至らせるための梃子として機能するかの
 ように書かれている。だがそうなのか。ここではこの点を佐々木氏の本にある
 情報源から再検討して見る事としよう。つまりデータは佐々木氏に依るものだ。

FLOOD

私は、膨大なノイズ───泉あいや松永に対する罵詈雑言、「黒幕は
オウムだ」と言った妄想などに腹を立て、それらのノイズに思考を引き
ずられた挙げ句、さまざまな人たちが行っていた論理的な批判に目が
向かわなくなっていたのだった。つまりは批判を黙殺し、「絶対的正義を
掲げて声高に人を非難している」と十把一絡げにしてしまったのである。

前掲書、265頁

 さて。
 ここで要請されているものは自明である。それはノイズがある事の容認であり
 その看過である。そしてその上でまともな発言を望む者はそのノイズを自力で
 潜り抜けられなければならないとされているのである。逆に言うとこの文章は
 ノイズは自ずから退けられる訳ではないと言う事を含意している。さらに言えば
 ノイズは自覚的に意図して退けられる必要がある事になる。従って、ここでは
 この自覚や意図なしには公共性なんて出現しえないという事が出来るだろう。


 そして
 そこで問題になるのは、そう言った自覚的な振る舞いを単に極私的な行動だと
 言うべきなのかどうか、だ。佐々木氏自身ノイズの波に浚われてしまったように
 そこには明らかに能力と努力の段階がある。それはその他の極私的なブログら
 とは区別されうるはずである。それをも公然性の所産として済ませうるだろうか。
 確かに公然とノイズがある事こそこの自覚的なノイズ除去のスタンスが出ると
 言う事は出来る。だがそれは自然発生というほど自動的なものではないだろう。

BLOOD

 
 さて。
 しかしこの自覚的なノイズ除去のスタンスも自分たちがノイズに包囲されている
 事を拒まない。その事は佐々木氏への批判が現れる事から考えれば解る事だ。
 ノイズらの包囲を打ち破る方向でノイズらと混同されないようにするのではなしに
 単にノイズをそのままにそこと同一視する視点を拒絶する。だからこそ佐々木氏
 への批判が出てきたはずだ。さて、ではノイズが害をなすのはそうした同一視が
 なされる場合だけだろうか。そうではない。何故ならノイズを潜り抜け発言を精査
 しうる者もまた限られているからだ。だから相当程度にそうした非ノイズを自分の
 側につけていなければ、誰がそうしたノイズの除去をしてくれるのか、という問題
 になってくる。つまりそこで必要になるのは論陣である。だがそれは説得力とは
 別の要素だ。それは頭数であり、偶然の産物であり、極私的な交友関係なのだ。
 それが発言の内容、及びその受容を左右する。この事を承服しない者のすべき
 事はここでもはや自明である。それはノイズそのものに自力で対抗してゆく事だ。
 

 それは恐ろしく非効率的な作業である。非ノイズもノイズから誰も守りはしない。
 消極的に単にその違いを見て取るだけだ。しかしその間にもノイズはノイズらに
 自力で対抗しようとする者をノイズそのものに取り込もうとするだろうし、出来る。
 その中で自身の独立性を、あるいは単独性を、十分な個体性を見せ付けるため
 にはノイズを分析しその分析を示す事で個としての自分を示す必要が出てくる。

 
 だが
 ノイズとは決して全て悪意に基づくものじゃあないし、悪であるとさえ言い難い。
 それにも関わらずそこに対抗せずにいられない者はいる。その道は血塗られた
 道になるだろう。ノイズであろうとそれを書く誰かはいるのだし、それが例え極私
 的で卑小でさえあるような表現だったとしても、それをなすのに使われた心血は
 ある。その心血の洪水を打ち破らずにいられない者はその過程で手を汚すのだ。

ぶらっと

 さて。
 こうした状況の全てを包み込んでいるのがノイズであり、個々それぞれははほぼ
 無害な発言群である。そしてそれらの芯にあるのはこういった状況を看過してゆく
 無関心であり、それとともに自らをも看過して貰おうとする別種の無関心であろう。
 こうした無関心はどんなものをも育みうる。その無関心を直接問題にしない限りは。
 従って、こうした無関心がぶらっと革命にも似た大変化に繋がる事もそう怪しくは
 ないだろうが、その中で失われるものにもまた制限はないだろうと言う事になる。
 その中で何かが失われないよう望むのなら、そこに意志とその表現が要るだろう。 


 つまりはただぶらっとネットの大海にやってきたのではなく、意志を持ってそれを
 示し、自らもそのノイズの大海に呑まれるかもしれない危険に身を晒す事になる。
 公然性と私性の結託はむしろその大海であり立ち向かわれるべき自然であろう。
 つまりそれが場としてあるだけでは決して構造から発散した力なんて捉えられは
 しないだろう。「公」なるものがネットに現れるにはその筋道しかないように思える。


 そしてその動きを見通すには当の大海の中で具体的な筋道を探す他ないだろう。


◆同日追記
 タイトル誤記修正。
 

Subject In PUBLIC

 さて。

「公」という言葉が何か拡大解釈されて一人歩きしているようだ
が、「公」とは当時ネット空間、つまりブロゴスフィアを指していた。
特定の個人だけで集まって「内々に」説明を行い、解決をつける
ことは不明瞭であるので、ネット上で公開して議論しようという
意味合いで発言した。(このあたりは佐々木氏の「フラット革命」
でも採録されている)それが、私の姿勢や発言を自分で「公的」
であると言ったとか、「自分が公だ」と言っているなどという曲解
は、私の主張の歪曲を目的にする解釈であり全く根拠がない。

うーん - AnotherB

 BigBang氏のこの手の小手先技はすでにここでも指摘済みだといえるだろう。
 BigBang氏の「行動」はすでに公共性の代弁を内容上含んでいる。その点の
 指摘はすでに示したリンクで十分だろう。お望みならもっと具体例も示せるが。


 ともあれ
 ここではこのロジックの破綻を示そう。これもBigBang氏の発言の常だろうが
 自分自身のスタンスの揺らぎにちっとも自覚的でない。そしてその上自分の
 意に染まぬ解釈をその解釈者の恣意だとしか受け取れていない。だが実際
 自ら発言を見直すと約束した人間のそうした態度は、やがて信用を失わせる
 だろうし、もっというと良好な関係を叩き壊し回復不能にさえしてしまうだろう。


 そして
 ロジックだが、まずはここで言われている言い分が奇妙だ。この言い方では
 まるで「公」に関するBigBang氏の発言が言質とされ、逆に言えばその行動
 こそがそのように批判されているのではないかのように見える。だがそうか?
 そんなみみっちい見方しかしていない人が誰かいるだろうか。何故その行動
 そのものへの批判として受け取らないのか。誰かそんな限定された引用でも
 しただろうか。いずれにしろ、あるものならまずはそれを示してからの事だろう。
 
 というのも
 ここでいきなり「当時」などといった謎指定が出されているからだ。それは誰と
 共有された時間指定だろうか。あるいは誰と共有されうる時間指定だろうか。
 こうした極私的な指定を公然と振り回す点こそ勘違いなのではないだろうか。
 この極私的なスタンスで「内々」ではない話をしようというのだから、それは
 ハタから突っ込みも来よう。言葉がところどころで物凄く「内々」に向いている。
 その点の例も上の発言にある。それは、当の解釈者の行動理由を何故だか
 実例も示さず読み解き終えた気になってそれをいきなり前提にしている点だ。
 何故ここでこそ自分の発言を見直さないのか。何故相手の発言の根拠をさえ
 聞きもせず決め付けるのだろう。何故そんなに「内々」の言葉を出せるのか。

「公共性を代弁」する事には相応の慎重さが求められる。

「雨、蒸気、速度」 - 売文日誌


 で
 実際のところ私的な関心だといいだせばこれまでの「問題」なんて瓦解する
 だろう。そんなのは個人的に聞けば済む。そうじゃあないというなら、それが
 公然と問題にされなければならない理由を説明出来なければならない。そう
 であればその問題がどう公然性に関わるのかを説明すべきだ。それもせず
 公然性について論じられる事を拡大解釈だというのはいかにも身勝手だろう。

Lost in Rust LOG


 さて。
 佐々木俊尚氏の「フラット革命」についてはすでに読了したが、それについて
 書く前に少しばかりこの問題について見る事にしよう。まずは引用しておこう。

私の残している仕事はことのは関連の過去エントリーの総
見直しと削除やコメントの付加です。それがどのような範囲
になるかは、当然ですが自分で判断して自分のペースで進め
ます。(緊急性のあるものは言っていただきたいと思いますが)

BigBang氏のコメント

 このようにBigBang氏自ら書いているので緊急性のある点を指摘してみよう。

「終わり」は人為的にもたらすものではなく、気が
つけば「終わっていく」ものだと思っています。

BigBang氏のコメント

 このコメントが問題だ。この発言については今すぐにも見直されるべきだろう。
 何故ならこの言い分は疑問を発したのが誰なのかという点で無責任になろう
 とするものだからだ。これでは自分の疑問について自分では終わりを与える
 事が出来ないかのように読める。それはeshek氏の言葉に応えにならない。


 このコメントが取り違えているのは、eshek氏の言う「終わり」の意味である。

「全体で醒めて」という意見もありましたが、全体で醒めることは
おそらくないでしょう。個々が個々の疑問を解決したら去っていく。
それが自然だし、そういうケースが多いようです。

eshek氏のコメント

 つまりここで言われている「終わり」というものは常に個人的な立場のものだ。
 BigBang氏は何故かこのコメントを拡大解釈しており、eshek氏のコメントの
 核である責任の限定について取り違えている。間違った解釈を次に引用する。

eshekさんは繰り返し同じことをおっしゃっていて、それはある「終わり」の
形を、早くこの問題に対して与えなければならないということだと思います。

前掲コメント

 これは全くの読み違いである。eshek氏は確かに合間合間に事の終わりにも
 言及してはいるだろうが重要なのはそこまでのコントロールは出来ないしする
 べきでもないし、もう少し言うなら出来るべきでもないと知る事だろうからである。
 何故自分一人の問題意識に立ち返らないのか。聞かれている事はそれだろう。


私たちの筋としては、提示した疑問がクリアすればそれで
終わり。それ以上関わるべきではない。そう思っています。

同上

 聞かれているのはシンプルな事だ。自分自身の疑問は解消されたかどうか。
 それについて応えうるのはBigBang氏であり、またそうであるべきであろう。
 例えば書かれたものからその内心深くまでを読み解く洞察力があったとして
 そういった能力は基本的に下劣だし、それを用いるに相応しい資格は滅多な
 事では得られまい。その能力は自他の権利上の断絶を踏み越えうるからだ。
 殊に誰もが好き勝手に発言するネットではそうした能力は恥じられるべきだ。


 だから
 BigBang氏は、自分自身について自分で始末をつける必要を認めるべきだ。
 その必要性を「全体として事が終わる現実味」に取り違えるのはすり替えだ。

 
 勿論
 公正にいってすでにBigBang氏がその点に言及している事も記録にはある。
 このエントリの冒頭で引用したコメントがそれだ。過去のエントリ群を見直す
 必要性について確かにこのコメントは述べている。それが述べられてはいる。

 
 それを読んでなおeshek氏が話を続けた理由については知らないが、僕に
 ついて言えばそのコメントの発言ではまず信用出来ない。その理由を示そう。

私が「まとめ」を出す時期は私の内面の問題であり、それが早急に
なされることで、続いている混乱が解決するとは思っていません。

前掲コメント

 ここに「私」と「事」の癒着が見られるからだ。公的な状況に参加してゆく個
 として公的な問題に関わるステップを積み上げるのではなくその内心から
 茫漠たる「事」へと短絡させている。しかもその上で私的な事情を「事」より
 優位においている。この態度は自分自身の分を余りに大きく見過ぎている。
 一般的にいって私人の内面が公的な状況下で暴かれない事は無論重要
 ではある。だが自分で選んですでに表現した事はその限りではないだろう。
 だから自分の表現については自身の外面の問題として引き受けるべきだ。

  
 最後に

さらに私のまとめが出ることに何の意味があるのか私にはわかりません。

前掲コメント

 端的にその意味を言えば、それはBigBang氏の出した疑問を多少なりとも
 理ありと見た人、無論それは松永氏自身をも含みうる色々な人々に応える
 という意味がある。それをしない場合その人たちをいつまででも錆びついた
 過去ログに彷徨わせる事にもなりかねない。BigBang氏の真意を探してだ。
 それは自分から進んで問題を提起表現した者としていかにも無責任だろう。

Log LAG

 さて。
 批判を始めよう。まずはここに見られる脚注の問題だが、これは実際不十分な
 指摘だろう。そもそも同じ問題について二種類の註釈がある事自体おかしな話
 だからだ。まず一つ目はここの最下段にあるもので、二つ目はここの最下段だ。


 注目すべきはその記述が前後食い違う事である。端的には泉氏の扱いである。

民主党のブロガー懇談会をアレンジした泉あい氏にも批判が飛び火した

註釈:ことのは問題、145頁

インタビューを敢行した泉あい氏がオウム関係者ではないかと憶測を呼んだ事件

註釈:泉さんの事件、229頁

 知っている者はこの註釈のどちらがより実相に近いか解る。だが知らない人の
 理解に資するのが註釈の目的なのは至極当然の事だろう。これは意味がない。
 もう少し言えばここにある表現では実際のところどちらも十分に真実を描写した
 ものとは言えないだろう。泉氏への非難は松永氏への非難の少し前にもあった。
 さらには時系列もおかしい。「泉氏の友人」への非難はインタビューの前の事だ。
 これら二つの註釈はこのように真実性に落差のあるものだ。しかしそもそも同じ
 事について二種類の註釈を別の頁に分ける意味が解らない。困惑を招くだけだ。
 二つの註釈に含まれる情報を一つにまとめ145頁と229頁からその註釈へと
 指示をだしておけばいいだけだからだ。二つの註釈相互にお互いを指示させて
 混乱させていいはずがない。情報の扱いを問題にした本として当然の事である。


 ついでにいえばCGMについての註釈を見れば解るように、二箇所に同内容の
 註釈があるものもある。そこからまともに考えればこの二箇所の別内容の註釈
 にはまあ何か意味があったろう。章ごとに執筆者が異なるからそこでの註釈も
 執筆者、その回のプレゼンテーターの主張が優先されたとか、ありそうな話だ。
 無論そうであったとしてもその点の明示がないのは何とも雑なやり方だろうが。


 さらに
 この本は「ログ」であると言われている。確かにこの本に出てくる問題を見れば
 そうした雰囲気はある。例えばライブドアについての問題などはそうしたものだ。
 しかし実際のところこの本をログとして十分だと考える訳にはいかない。ログの
 機能をざっくりと言うならマッピングにあると言えるだろうが、この本にはそれを
 成り立たせるための梃子がないのだ。その梃子とは正確な時間の記載である。
 つまり、その話題がいつの話題で、またそれについていつ話し合い、最終的に
 書籍の形態に仕立てたのはいつなのか。言及の対象について、言及の行為に
 ついて、そして言及の再現について、それがいつの事なのかが重要なはずだ。
 何故と言えばそれらが時間軸による事柄のソートを成り立たせるものだからだ。


 あるログの意味は他のログとの接続によって塗り替えられる。だからそれらの
 ログを接続させうる情報はログの中でも重要なものとなる。そしてログを接続
 させる情報の中でも時系列は特殊なものだ。それは信用に基づきつつ不動の
 ものとして扱われるからだ。時系列は基本的に自己申告で表される情報だが
 ほぼ誰もそんな来歴を疑ったりせず、それに従って情報の整理さえしたりする。
 その信用に根拠はない。あるとすればそれはそこで嘘をつくというものに余り
 出くわしてこなかったという経験程度だろう。その根拠のなさは無防備な信用
 である。それはここで書いた特定仮名と書き手の一対一の対応のように誰もが
 疑わずに前提視している事である。従って、この情報の操作は当然論外として
 この情報に不足のあるログは実際ログとして中途半端だといわざるを得ない。
 

 つまり、この本には本としての形を取りまとめる時点での不備が目立っている。
 この事が何を示しうるかといえば、せいぜいこの研究会の足並み程度だろう。
 その足並みは別に問題じゃあない。それは松永氏の問題とは関係ないだろう。


 ともあれ、事の移り変わる基点を探す意味ではこの本はやはり役に立たない。

Medea InOBJECTION

今回のオウム問題に関しては”主義主張”の部分でぶつかっていると言う
ところが、今まではなかった要素だと言えます。今までは炎上対策として、
コミュニケーションスキルを磨くと言うところに力点が置かれてきました
が、主義主張同士のぶつかりあいだとそれは通用しない。その意味では、
大変エポックメイキングな事件だったと思います。

『メディア・イノベーションの衝撃』より、藤代氏

 さて。
 さしあたり関連部位を探すための流し読みと関連部位の通読を終えたところだが
 まずは本全体について少しだけ書いておこう。この本は。研究会で行われた討論
 記録から書かれている訳だが、個々の回ごと、つまりこの本の章ごとに参加者も
 議題も違い、当然話の流れも結論も個々の章ごとにばらばらである。というよりも
 個別の章ごとでもなかなか議事に沿って結論が導きだされているように見えない。
 またこの本には索引がない。個々の章ごとで何がどう扱われているのかは実際に
 通読しなければ解らない仕組みになっている。わざとなのかどうかは知らないが。


 で、とりあえず他に読む人の利便を考え関連部位のピックアップをメモしておこう。
 いわゆることのは問題、松永氏に絡む問題についての記述は以下の頁に見える。
 見つけたのはP55、65、83、145、229、233 という六ケ所。漏れもあろうが
 そう大幅に増えはしないだろう。いずれを読んでも、まあ記述としては物足りない。
 ここで指摘されるように見方の問題もあろうが、おそらくは分量の問題だと思える。
 抽出出来た箇所のどこを読んでも提起された問題につき話を膨らませる人はなく
 要するにこの事について「話し合われた」というよりはむしろ「話に出た」だけだと
 言うべき程度である。つまりは個々の言及者の個人的な観点の域を出ていない
 事しかこの本には書かれていないだろう。それにしたって量がなく、当人の本位
 について参考にして書くためには、いささか情報源として貧弱だと言うべきだろう。

 
 松永氏関連の問題に的を絞って言えばこの本は現状それほど大した意味はない
 だろう。無論書籍として残るのだから、そこからこの問題が新たに芽を出す事も
 ないとまでは言い切れないのだろうが、今のところはそうなる可能性も見えない。
 

 従って、
 現状この本から解る事と言えば、佐々木氏がこの問題を一応は気に留めており
 こう言った研究会でも問題にしようとはしていると言ったぐらいの事になるだろう。


 そして
 まだ流し読み段階で何か本全体について言う事があるとすれば、それはここで
 言われる事が結局個々のブロガーやブロガーになろうとする人に余り役に立つ
 ものではないと言う事だろう。例えば「リテラシー」一つとってみたところでその
 具体例と実技には踏み込んでいない。泳げない人に向かって泳げるようになる
 べきだといっても余りに助けにはならない。つまり、ここで問題点は通り過ぎる
 対象になってしまっている。だが最初にひいた藤代氏の意見にも見られる通り
 次第にそれでは済まなくなってしまってきている。それについて具体的な処方
 箋は提示されていない。殊にそれが明らかなのは、こうした主義主張の問題は
 そもそもメディアに知見の蓄積があってよさそうなのに、それが出てきていない
 というところだろうし、それに変わる知見を探しあぐねているところになるだろう。
 

メデイアの魔法の力は民の恐れるところとなり、
イアソンはイオルコスの王位を継ぐどころか、
国にいられなくなってコリントスに逃れた。

イアーソーン - Wikipedia

Do Justice to Yourself 

良識とはそれを鮮明に捉え、突き放し、決して許容しないという働きで
あって、本来ならばごく自然に集団の意志として機能すべきものである。
そこにリスクとなんらかの別の要素が個人に要求されるなら、その
理不尽は許されざるものとして誰かの手で指摘されなければならない。

2007-07-27

 さて。
 Ereni氏の発言がこのように身勝手であるのは無論今に始まった事ではないが
 ともかくも批判を始めよう。この発言は論外である。何故ならここで正義が余りに
 無害なものとしてしか考えられていないからだ。だが正義とは危険なものである。
 それは人をいかなる事にも駆り立てうる。無論殺人にもだ。そうであればそうした
 危険物を取り扱う奴に相応の能力が求められるのは当然だし、安全のためにも
 そうすべきだ。それを個人の責任から切り離して「集団の意志」などといった実に
 気紛れなものに委ねる事はそれ自体危険だしそんな一個人の正義感としてさえ
 表明されていないものを絶対視していると言うのでは全く危険極まりない状態だ。


 何故そこで他人の視点の方がより正しいかもしれないという想定さえしないのか。
 自分の足元は誰かと共有されているとしながら、何故異なる考えを想定してさえ
 いないのか。正義を扱う事そのものにリスクがあるというべきなのに、何故その
 リスクを当の正義について喋る奴から捨象して差し上げられるというのだろうか。
 その危険性を引き受けもしないし出来ないのなら正義を用いて誰かを守るなんて
 心地よい事をする資格はないだろう。それなのにそれを強行しながら他の誰かに
 その責任を押しつけるなどというファナティックな事は恥ずべき振る舞いであろう。


 他人が一線を越えていると言う事を指摘する事はともかく、自分がそうなっては
 いないのかどうかをまず保障できないのなら、一体誰が話に耳を貸せるだろうか。

Masquerade:MasCORRIDA

「冷酷な夫人は勝負に点数制も時間制限も認めようとしないもんだから
 自然 戦いはハードになる・・・どっちが勝者でどっちが敗者だか
 わからねえくらい互いに消耗しちまうんだ選手は・・・大体ザザの街
 全体が夫人という神に魅入られているようなもんさ・・・フフ・・・あの
 住人達にしたって夫人が仮面をしてるって理由だけでああやって
 つけたくもない仮面をつけさせられてる・・・この武闘会を皮肉った
 言葉にこんなのがある・・・右は弱き敗者・・・左は強き敗者・・・そう
 ・・・勝者はただ夫人のみ!!」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4063218139/baibunnnissi-22/ref=nosim/

 
 さて。
 問題はさらに迂路を経る事になるがこの迂路はまた不可欠なものになるだろう。

再利用する必要がない言説には、アカウントは必ずしも必要
ないのだ。言い捨て御免で済む場合、名前は無用の長物なのだ。

404 Blog Not Found:匿名に関してそろそろまた一言言っとくか

 ここで考えなければならないのはどういったケースが言い捨て御免で済むのか
 と言う事である。そうでない場合は名義が必要となる、という理屈になるからだ。
 だがここで小飼氏の論理は歪む。何故ならこの次にはアカウンタビリティゼロ
 という事を口実にしてダメージを幻だと宣告し始めるからだ。まずは引用しよう。

匿名さんたちの「言葉の暴力」をスルーするには、このことに気がつき
さえすればいい。これがゼロでないと思い込むから、幻痛が生じるのだ。

同上

 つまりここで無限ループが作られている。匿名発言はスルーすべきだといって
 いる一方で、そのようにスルーされうるような発言なら匿名でいいとも言うのだ。
 アカウンタビリティゼロならダメージは幻だといい、ダメージがないなら匿名でも
 構わないとする。こんな無限ループにかかれば何でも免罪されてしまうだろう。
 実際には、個々の匿名発言に際して「それが匿名でも構わないのかどうか」の
 考慮が必要となるはずだ。さもなくば「言い捨てで済む場合」など見つかるまい。

 
 さらに言えば、アカウンタビリティゼロだとかいわれる状態ならダメージは幻だと
 する理屈も妙である。中傷をする側がその責を自分に問われたくないというのは
 単に勝手な理屈である。そしてその場合も実際にトレースが行われるか否かが
 問題にされていない。これでは匿名でどこかの家に剃刀を投函する例とどう違う
 だろうか。そしてそんな場合にそんな事の不快さを幻だと何故言えるのだろうか。
 もっと言うとその不快さをどこまで幻と見做すべきなのか小飼氏は書いていない。
 窓ガラスを割られるとどうだろうか。家族の写真をバラバラ死体に模した場合は
 どうか。そのように態様が悪辣なら場合が違うと言うのなら、当然匿名の発言も
 そのようにならなければ辻褄が合わない。だが論理の歪みはここからさらに進む。
 
 

アカウンタブルでないバリューはどこに行くかというと、人ではなく場に蓄積される。

同上

 ここでこの発言は一方的にしか展開されていない。だが公平に見る限りここから
 さらに次の事を述べなければならないだろう。それは無責任な匿名発言も蓄積し
 それが場を維持するコストに変わる事もありうると言う事だ。匿名でも発言出来る
 ようにわざわざ仕組みを造っている側は個々の匿名発言について請け負うべきだ。
 そしてそのような匿名の場に参加する側はその場を維持するためのコストを負担
 すべきだ。少なくともその「場」との付き合いならば持続的なものになるのだろう?


 そしてその匿名での発言ならアカウンタビリティゼロと呼ばれるとしても、それは
 逆に言えばそうなる直前ならまだアカウンタビリティがあると言う事で、つまりは
 匿名に「なろうとする」事の責任は、やはりそいつに求められなければならない。
 つまり順序としては責任を肩代わりさせる事についての支払いが先行している。
 だからそれをまず支払なければむしろ滞納である。結局のところ匿名での発言も
 その効果が場に蓄積してゆくのなら単にその責任を場に肩代わりさせているだけ
 である。そしてその肩代わりを願い出たのは一体どこの誰だというべきだろうか。
 

 従って、少なくとも匿名の場を維持するために誹謗中傷を非難するくらいはコスト
 としても安いもんではないだろうか。まあいずれにしろこの話は本題の枕である。
 
 
 といっても
 本題は短い。言論が持続不能に陥っている例がこの話の先にあるというだけだ。