もっとシンプルに構図を描くと、僕はume氏への疑いを公言しては
いません。ネットで公然と解明すべきほどではないと思うからです。
しかし、BigBang氏はそうではありません。そうであれば、そちらが
その「解明」に乗り出すか、あるいは「退く」かどちらかでしょう。
そしてネット上でアレコレ言う事が波及して色々な疑惑を呼んでいる
訳ですから、取り合えず「ネットからは」退いてほしいと思います。

060605のコメント

Brahman:BluffMAN


 さて。
 ここで問題を予示してから五日が過ぎようとしている。そろそろいい頃合だろう。
 結局のところこの事に絡んで自身の責任を明示的に明らかにした人は皆無だ。
 勿論この「明示的に」「明らかにする」と言う重ね言葉にはいささか含みがある
 が、まあこちらから敢えて明示的に仕立て直す要もなさそうな程度の事である。
 と言う訳で問題はここで何も表明しない事が何を意味するのかと言う事になる。

 
 そしてこの今の状況を正確に記述すると「ネットですでに継続的に活動してきた
 名義が実際には一個人を指示するのではないとされているにも関わらず、その
 内部構成についての情報が全く伏せられている」というあたりだと言えるだろう。
 無論これは別に実名開示を求めているものではない。そこは釘を刺しておこう。

Hyde


 ではそのユニットなるものが何故問題なのか。実際のところユニットである事
 そのものは問題じゃあない。問題はその内部構成が隠されていると言う事だ。
 簡単に言うと騙し討ちが非常にしやすいのだ。つまり責任についての問題だ。
 

 まず普通に考え付く事としては個々の構成員がそれぞれ別個にブログなどで
 発言する事がある。この場合、そのユニットとかやらの内部構成を知らない側、
 つまり端的にそいつら以外にとってそいつらの内部構成は密約と同義である。
 無論実際のところそんな個々の構成員のブログがあるのかどうかも知らない
 が、それは当たり前の事だし、むしろ通常のプライバシーの考え方からすれば
 知ってなくて当然だし知っているべきでもない訳だ。だから、そういった個別の
 ブログであるとか活動があるのならそれはそういう事をしている側が自分から
 明らかにしなければならないだろう。さもなくば、いずれにしても他人に不正を
 強いる事になるからだ。不正を受忍するか、あるいは不正を承知で内部を暴き
 手を汚すのかどっちかだ。ここで不正を回避する方法は、そういった隠秘的な
 ユニットとかやらの側に独占されている。責任もそこ以外にありえないだろう。

Hides


 次に考えられる事としては不特定性の問題がある。要するにそいつを説得する
 際にそいつの考え方などを計算に入れるというごく普通のやり方が有効じゃあ
 なくなるって事だ。何故そうなるかと言うとその同じ名義を使う連中がどんだけ
 いるのかさえ解らないからだ。つまり説得のハードルがこっそり高められている
 訳である。特定の誰かを説得するのならそこまでにはならない。仮にそいつが
 匿名を使っていようと、一人の人間が醸し出す煩悶や曖昧な情感がある程度
 説得へのハードルを引き下げるからだ。そいつがそいつであると言う特定性が
 あればそうなる。だがその一つの名義を見知らぬ奴らが入れ替わり立ち代わり
 使っている場合はそうじゃあない。説得されかかった奴がいてもすぐに次の奴と
 代わってしまえば説得なんて出来やしない。殊にその交代を知りもしない間は。
 

 この方法は通常のネットでの意思疎通に見られている信頼を逆手に取っている。
 ありていに言えば騙し討ちであり、もっと言うならその信頼への重大な裏切りだ。
 普通の意思疎通でこんな方法を想定する奴はいないだろうしそれを想定すべき
 だなんてとてもじゃあないが言えないだろう。仮に想定したってそれを確認しうる
 正当な方法もまずないのだから。つまり、こんな方法は予め排除すべきものだ。
 殊にそれが曲がりなりにも「公」なるものに関する限りは。こんなトリックを使って
 意思疎通を操作しようとする連中の責任感など全く知れているというべきものだ。
 この方法は無限の難癖を可能とする。それに気づいてないなら無邪気に過ぎる
 だろうし、解ってたなら当然論外だ。いずれにせよ現状そこへの説明は皆無だ。

HYDRA

 
 さて。
 さしあたり懸念される事としてはもう一つの可能性がある。それは当のユニット
 とかやらが十分に組織化されているのかどうかだ。もしそれが十分じゃあない
 場合は一方的な約束破棄を常態としかねない。ある構成員がした約束は他の
 構成員も当然守らなければならないが、そもそも組織として十分に確立されて
 いないところなら「他人」のした約束なんて知らないって事からありうるのである。
 無論ここでその「他人」と言うのは外からは解らない身勝手な理屈だ。それは
 一つの同じ名義を使っておきながらその名義に付随する責任を放棄する事だ。
 だがそこに予防線が引かれているのかどうかも外からはちっとも解りはしない。


 だからここでそのユニットとかやらの代表や内部組織の構成が明らかにされる
 必要がある。さもなくば、応答可能性や応答能力が通常の自然人と比べると
 著しく貧弱だと見做されても仕方がないだろう。そんな仕込みをやった結果だ。
 勿論、そこに何の組織もないならそんな体たらくで「公」を標榜する議論に介入
 すべきじゃあないのだが、まあ後の祭りだ。いずれにせよその内部構成を自ら
 明らかに出来ないなら、そんな薄ら暗いところにつきあって差し上げる要はない。
 勿論そこに十分な組織があるのならその目的と代表者くらい明らかにすべきだ。
 

Hydra−HEADED


 さて。
 問題はこうして多岐に渡る。ここでも色々書いたが、とても全てを網羅したとは
 思っていないし、それぞれ問題を当てはめて考えるべき個々の具体例を挙げる
 事もこの際一苦労である。だがそうやって「ここでは割愛する」式に棚上げした
 挙句忘却するのも当のユニットとかやらの常態なのだから、少しだけ例を示そう。
 まず端的にこの台詞は爆笑ものの茶番に姿を変えるだろう。名義とその責任が
 身体を含む存在と一対一で対応してもいないのにそこで何が賭けられうるのか。
 組織がヤバイというのもその組織がある事すら知らない外に言える事ではない。
 次にこの台詞は自分の意志よりも当のユニットとかやらの内部論理を優先して
 いる実例だが、あいにくこの台詞もいささか意味を変えうるものと見られるだろう。
 何故ならその対象に意志を示す事さえわざわざ避けている理由が不明だからだ。
 勿論これは単なる勘繰りで的外れな疑いって事もありうるが、確証は全然ないし
 少なくともこの勘繰りを予防しうるように予示エントリもこちらは挙げたのだから
 文句があるとしても、こんなトリックを仕込んだ方にこそ言って欲しいものである。


 さて。
 最後に言っておくとこのトリックが実際にはなかった場合については考慮するに
 値しない。おおもとの発言が嘘だと敢えて仮定して差し上げる要などないからだ。


◆ほぼ同時刻追記
 なんかエントリがダブった(が編集画面ではダブってない)ので色々いじった。
◆26日深夜追記
 なんかトラックバックが反映されてなかったようなので双方に改めて送信した。

亜空の瘴気 ヴァニラ・アイスについて


 さて。
 Ereni氏が復帰してはいるがどうにも始末を付けに来た訳ではないようである。

病んだ人間が何かできるわけもなく、見切られていくことの連続な
わけだが、それを最初から知っていた場合どうすると思うんだろうね。

2007-07-20

 ここで異様なのは見切られるという自分への関心しか語られない事の暗黒さ
 である。考えなければならないのはその過程だ。誰しも理由なく人を見切りは
 しない。殊にそこで考えなければならないのは他人が受けたダメージだろう。
 見切られるだろうと知っていたなら手を出してどうしようと考えていたのだろう。
 考えもなく他人の問題に半端に口を挟んで放置するつもりだったのだろうか。
 そこに何の理由があるのか知らないし知るべきでもないが、それは悪意より
 タチの悪いものだろう。自己憐憫と欺瞞が他人をそこに巻き込んでゆくからだ。


 Ereni氏がどういう状況にあろうと、その境遇がどのようなものなのか他人は
 知らないし殊にネットで遭うような対象なら簡単に知りうるべきでもないだろう。
 何も出来はしないのだから。何も出来ないなら最初から何もすべきではない。
 何も出来そうにないのならそんな状況を知ろうとする事さえ恥じて然るべきだ。
 安全に傍観する権利を得ようとする恥知らずな振る舞いは避けて然るべきだ。
 だから何かして貰える期待が持てていないならそんな状況を書く事もやはり
 自重すべきだ。殊にそれが単に真摯な状況の吐露なんかじゃあないのなら。


 Ereni氏は他人の問題に押し入ってそこに自分の問題を植え付けている事に
 気がついていないようだが、そうやって他人をも自分の内心に巻き込んでゆく
 振る舞いは不潔だ。そうやって他人に自分の問題を植え付けたって自分自身
 その他人に何が出来る訳でもないだろうに。一方通行で人を巻き込み続ける
 そうした方向性や品性は、あえて言うなれば許容すべきものではないだろう。
 

 

Just A MOMENT

 さて。
 問題は何かまたややこしくなるだろうところに差し掛かっているようだから、
 少しだけ中休みの意味で余り関係のないところの話を扱ったりしてみよう。
 無論これは中休みのエントリだからこれについて詳細な話をするとしても
 それは中休みの後で書かなければならないエントリ群を書き終え、そこで
 扱ってきた問題が終わった後にする。全くこっちの勝手だがそのつもりで。

Time FRAGMENT Project (TFP)

ウエブというのは「入り口」が多すぎて看板的なものが効果を示し
にくい。それでも「無いよりはマシ」と思って私とかは看板設置に
やっきになってるわけですが、一番効果的なのは「そこに出入り
している人が誰なのかを見張るカメラ」の設置なわけですよ。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070718/1184721821


 小倉氏に絡んでネットでの問題解決を扱っている話だが、酷く奇妙な話だ。
 抜け道が多くて看板やカメラにコストがかかり過ぎるなら、通行人が互いに
 注意すりゃあいいだろうに。システム不要。コストゼロ。要るのはやる気だ。
 そしてそれが見られないのなら「仮に作るならどういうシステムがいいか」
 なんて議論しても現実にそれが作られる期待になかなか繋がらないだろう。
 まあ、ざっと言うなら「泣き寝入りを強いる」くらいにも受けとられるのだろう。


 勿論
 聞かれればそりゃ大抵の人は「中傷はよくない」とか言うだろうが、問題は
 抑止力としての意志なんだから、聞かれてそう応えるのはむしろNGだろう。
 つまり小倉氏への反論として言ってるだけの意見ならそんな程度かって事。
 そんななら自力で問題解決に当たっている現場からは省みられないだろう。

Hyde Hide HYDRA

 さて。
 ここからは中休みながら以前と同じく松永氏関連の話だが、問題はこの通り
 である。この発言がどういう効果を持っているのか、いくらかの人らはよくよく
 考えて何らかのレスポンスをすべきだろうと思う。聞かれるより先に、である。
 というのも、この発言が特に責任については重大な意味を持ってくるからだ。
 それは当の対象だけにではなく、それに近づいた人にもそうなってくるだろう。
 まあこの上でその辺のきちんとした処理を放っておくならそれはそれだろうが。

一本の首を切り落としても、すぐにそこから新しい二本の首が生えてくる。

ヒュドラー - Wikipedia

待つ事、そして希望する事

 

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 さて。
 事は続いているが、どうにも品がなくなってきている。勿論それは誰も自覚しては
 いるのだろうが、やはりそれも自己嫌悪に結びついてはいないのだろう。無論こう
 して倫理を自己嫌悪に忍び込ませるコントロールも品のない振る舞いと言うべき
 ではある。それは人を簡単に利用するためのスイッチを作ってゆく事だろうからだ。
 勿論倫理は行動と自制の領分にあればよく、その内心を踏み荒らす必要はない。
 その自制の梃子として自己嫌悪がありうるとしても、それは別に唯一のものでは
 ないのだから、他人の内心などどうでもいい。だから内心を問題にすべきなのは
 むしろそうやって土足で自他の境界を踏み荒らしに来る者に対してすべきだろう。
 何故ならそうやって来る者には幾らかのアドバンテージがあると考えうるからだ。
 

 ともあれ、ここでまずは応答のように示されているものから見よう。行き掛かり上。

応答/スルー

 mojimoji氏からのトラックバックが来ているので書くが、基本的には別に何もない。
 まず誤解とされた点は、そもそも「理由を問う」あのやり方ではmojimoji氏がキー
 ワード作成を倫理的に非難していないと考えるのは無茶だろうし、それを期待する
 事も無茶だろう。そしてその倫理的な非難が何に資するのかを考えれば誤解だと
 いう言い分を聞かされても特に何の感慨もない。無論真実味もそこには感じない。


 そしてより重要な事は「デタラメであったのかどうかを確認するため」といった理由
 づけだが、これも無茶だろう。別に07年の問題を扱っている時に06年にまで遡る
 必要性は全然説明されないからだ。現状の理由付けから考えうるのもせいぜいが
 Mr_Rancelot氏の人格や傾向性にイメージ付けをするためだという程度しかない。
 いずれにしろ、そうやって他人についてのトラブルをわざわざ参照させる必要性も
 問題もmojimoji氏から語られていない。それはmojimoji氏自身の言い分と齟齬
 する態度だし、端的に言って他人の問題を使用もしくは利用している。しかも他人
 への倫理的な非難をしながらだ。そのトリック仕込みの発言には真実味は感じない。


◆追記:0707070
 再度トラックバックが来ているが、まあ面白い理屈だ。まず「誤解」とされている点
 についてこちらが直接的な参照元としたのは次の発言。明示的に引用しておこう。

少なくとも自分は手を染めない、という態度は大事かと思います。

個人を対象としたキーワードを作る件について - モジモジ君のブログ。みたいな。

 また、後段「言えばいい」という言い方は無意味。許可を得る必要なんて全くない。
 過去の発言に縛られると他人に言いつつ、何故自分にそうされた時にはそうする
 事「ではなく」もっと具体的な影響を示せと言ってくるのか。というか、結局のところ
 そうした必要性や目的について何もなく、単にそうしたまでだとしか言えていない。

 
 ところで
 こちらが許容していないのはそういった変な理屈に他人の問題を「使用する」事だ。

傷心のレミィ

 さて。
 先に進むためにはここを引用しよう。問題は明確だ。明示的ではない表現の問題だ。
 絶対者への直接性を持ち出して自分のスタンスを語る向きはそれとしてそれなりに
 自分のスタンスの説明を試みてはいるだろう。無論、ここで出されている批判から
 眼を背けているし、結局のところ自分に開示されるそれを見るだけではなくあえて
 そのプロセスを他人に開示している実態からも眼を背けているという事も確かだが
 他人の内心に踏み込んでゆく暗い欲望に比べれば大した問題ではないのだろう。
 問題にすべきなのは、このような問いかけの中座だ。それは何を強いるのだろうか。
 あるいはそれなら何も強いていないと言えるだろうか。または強いていると自覚して
 なお沈黙を続けるのだろうか。いずれにしろここでは吐いた唾はのめないと言って
 おかなければならないだろう。読み手の権利として人に質問を投げたのであれば
 その質問に対する回答とそこに示された真摯さには十分に応えを返すべきだろう。
 

 勿論その回答自体、他人からの直接性への訴えに戸惑わされている事の報復の
 ように、自らに示される絶対性を他人へと示し、むしろそこへと引き擦りこんで困惑
 させかねないものだというところはある。だがそれならそれで困惑を示すという形の
 真摯さや正直さもあるのではなかろうか。その沈黙はよくない事と思えてならない。

「シャンドラの灯をともせ」

 さて。
 事には全て終わりがあるのでなければならない。それが覚めない夢でなければ。
 だがその事を伝えるにはまず迂路を経る必要があるらしい。そうであればまずは
 そこから見てゆきたいところなのだが、その迂路自体少々込み入っているようだ。
 従って、まずはその迂路に入るための予防線を引く作業から始めるようにしよう。

Back To the FUTURE

 さて。
 予防線は次のエントリ群についてのものだ。それを眺めて通り抜ける必要がある。
 それはそのエントリ群で扱われている事から自由にならなければならないからだ。
 その理由は次第に明らかになるが、端的に言えば党派性の懸念を払拭するため
 だとでも言っておこう。そしてそこでのエントリの問題点は端的に倫理の志向性だ。


 その事を知るためには少し時間を遡る必要がある。その入り口はここだ。ここから
 時間を遡る事がこれから事を終わらせるのに必要な過程となるだろう。何故なら
 これは前例だからだ。それは参照されうる記録だ。その蓄積は文化にさえ変わる。
 そして問題はそこだ。その蓄積が参照される事だ。その参照の時点だし、過程だ。
 その事を踏まえて、このエントリを振り返っていただきたい。そこで行われている
 参照は果たして何を目指したものなのか。その参照は果たしてどういう事なのか。
 それを量る規準は実際のところはっきりしている。それは当の参照項そのものだ。
 その参照されるべき記録が何を目指したものなのか。そことのズレが参照を審判
 する際の規準になる。無論そのズレが前例を昇華するという場合もあるだろうが
 同じ事でそのズレが前例を貶める事もあるだろう。だが今回のこの場合は後者だ。
 何故ならこの参照の仕方が全くの呪いであり、あるいは一望監視でもあるからだ。


 従ってここでその恣意性を指摘しなければならない。だがそれだけでは済まない。
 何故なら参照されている前例においては、人を過ちと過去に引き摺り戻して拘束
 してしまいかねない事が問題にされたからだ。その事に比べれば悪意の有無など
 さしたる問題ではないだろう。その機能に比べれば意志の有無などどうでもいい。
 意志が問題になるとすればそれはそのような問題をこのように掘り起こす意志だ。
 その恣意性についてはすでに述べた。だがそれだけではない。人を過ちと過去に
 縛り付ける意志が、あるいはそのようになった意志が問題になる。それはかつて
 あった意志が失われた事を示すからだ。かつて過ちと過去に縛り付けるものから
 人を解き放とうとした意志が、いまやそうではなくなっている事は全く問題だろう。


 だからここで期待するのは不断にその先を目指していた意志に再び立ち返る事だ。


No Man‘S LAND

 そして予防線の提示が終わって、次に問題にしなければならないのはここである。
 ここの問題はそれほどに明らかではないだろう。だが事の整理をすればおのずと
 見えてくる。まず前提としてブログでの表現が一時的にせよ存在と等価にもなる
 タイプの人がいるという事がある。そして、ここに重ねられている状況を紐解いて
 ゆけば、そうした人らが果たして何に晒されながら何に頼っているのかが解って
 くるだろう。ここで指摘されているのはある種の専門性と文化戦争のシーンから
 次第にマスに拡大する流れだ。そしてさらに重要なのは、ここで重視されている
 ブロガーのタイプがそうした専門性も持たず、かといってマスに回収されきるの
 でもないという事だ。彼らの特徴はここにある事である。その表現がその存在と
 一時的にしろ等価にもなりうるようなありようである。そうしたあり方からすれば
 そこでの共同体的志向も当然だと思える。同時性に開かれている表現であらば
 その表現が互いに結びついて繁茂し、やがて集まりを育む事は想像に難くない。


 そしてその表現は当人の単独性を露にする。だからそこには価値がある。交換
 不能であり、その対象にさえならないような価値がそこにある。しかしそうすると
 疑問が湧いてくる。それらの価値が不断に晒され続ける揺らぎをどう潜り抜けて
 ゆけるのだろうか。あるいはその防衛や抵抗はどういう次第で正当化されうるの
 だろう。もしその防衛や抵抗が共同体的な志向によるのであれば、およそその
 行き着く先は価値の喪失になるだろう。表現から結果的に現れたはずの共同体
 性が手段として必要になってくるのなら、そこで表現はもうそれ以前の切実さを
 当の共同体と引き換えにしているか、もうしてしまったと見做すべきだろうから。
 つまり慰めの群れが単独性を静かに密かに損なってゆく。問題はその損失だ。
 無論そこからマスの波に単独性が浚われてやがて消えてゆく事も予想できる。
  

 いずれにせよそれは防衛の手段としては本末転倒となる。防衛の手段自体が
 その対象をやがて損なうからだ。ブロガーたちの友愛は彼らを守る力ではない。


 だが実際のところ事はシンプルである。その他の手段が単独性を損なうからだ。
 つまり、逆に言って、その単独性、そいつ自身がそれらを守ればいいのである。
 勿論そこで孤立者同士の自衛合戦が新たに現れてくる事も容易に想像出来る
 事であるし、それだけではなくその当人自身のかつての記録が牙を剥く事さえ
 実際のところたやすく想像出来る事態である。一望監視とは全くそうする事だ。


 だからブログとは誰のものでもなく、そいつ自身のものになる事さえ、余りない。
 そのような中で何かを言う事について問題は色々あるだろうが、まず次に進もう。

Join the MAJORITY

 
 そして問題にするところは、ここである。ここでの結論が真実味を持っているとは
 思えないからだ。留保付きで語るしかないのだといったその結論自体はともかく
 問題はその留保を実際に実行する技術だ。それがなければこの話に意味はない。
 そうして参照する点はここだ。ここでの留保は実際のところ明白だ。それは事実
 そのものをさえ述べないほどに記述の展開を阻害している。記述される対象さえ
 具体的に明示されない事が、ここの奇妙な想像上の共存を可能にしている梃子
 である。その想像上の共存とは野蛮な人権侵害と民衆の声とやらの共存であり
 そのどちらもが解釈のレベルで選択されうると言う事、あるいは、そうした解釈の
 レベルで選択される「だけ」だとみる想像である。つまり事実の領分に切り込み
 より正確で正当な解釈に近づく道が、ここでは予め塞き止められてしまっている。
 だが実際の事例ではそういい続ける事など出来ない。判断はいずれ必要となる。
 それは、全ての事例が全く等価と言う事がないからだ。当の事例がどちらに属す
 事例なのかは事例の蓄積から明らかになる。それは解釈者の性向なんかでは
 どうにかしうるものではないだろう。どうにかしうるとすれば、それは全ての解釈
 そのものを拒否するしかない。そうでなければある事例についてどちらかなのか
 という分類が全く機能しない事などないはずだ。つまり解釈者の性向がどちらを
 より重視するのかという側面だけを述べながら、つまりその場で解釈されるべき
 対象を提示してもいないのに、他の立場へとものをいうのは行き過ぎた物言いだ。
 それは相手から「より厳正な解釈」の可能性を、つまり反論可能性を奪っている。 
 

 留保すればいいという事ではない。その同じ事が先にあげたエントリにも言える。

 
 ここでは神ならぬ身に厳密な審判が出来ないからといっているのだが、その誤謬
 可能性にどの程度迫真性が認められているのか、正直に言えば怪しいところだ。
 何故ならここでは単に留保付きで語るしかないとしか言われていないからである。
 そこでマスコミは恣意的に事実を切り取るという事が述べられていながら、実際
 では自分自身がどのようにそれを潜り抜けようとするのかについてほとんど何も
 語られていないようにしか見えない。留保すると言われても余り安心は出来ない。


 ここでは語る動機については留保なく素通りされている。次にここでは語る結果
 についても留保なく素通りされている。そして、ここでは語るという事態について
 さほど留保があるようには思われなくなってくる。まず動機について言えば語る
 べき事がないといいつつ語る事があるとするだけで済ませている。自動的に語る
 事が出てきている訳でもないだろうに、その動機について正直に明かす事もなく
 必要な留保が果たして出来るだろうか。何であれ、その目的に合う手段を考える
 必要があるだろうが、このようにその動機を正直に見て取った痕跡を示されない
 場合はなかなか是としがたいだろう。語る事の結果についても、自分で語る際
 についてはまるで問題にしていない。その結果をどう予見して何を予防するのか
 と言う先見性がなければどう留保するのかという規準はどこから出てくるだろう。
 そういった状態で留保つきでと言われたところでなかなか真実味は感じられない。


 殊に
 ブログで語る事について言えばその効果がどうなっているのか果たして書き手が
 自覚出来るとも限らないという事情があるだろう。その言及対象が沈黙を選べば
 その発言がどういった効果を与えたのかさえブロガーには解らず、ただ発言した
 記録ばかりが残される。無論そのブログを取り巻くマスの揺らぎは相変わらずの
 ままにである。事によるとブログでの評価が独走している事が明らかにならない
 ままかもしれない。だがそこでそれらブロガーらの言及の効果を明らかにすべき
 だといえばいかにも独占的であろう。そうであれば独走しつつダメージを与える
 発言をどうすべきかという事はおのずと明らかになってくるのではないだろうか。
 つまりブロガーらは単独で相互の発言を管理すべきという事になってくるだろう。


 それは例えば民衆の意志というものが民衆自身に作用しない訳もないからであり
 そのように意志を示すものにはその意志をもって他の意志を説得すべきだからだ。
 さもなくばその意志はマスの中の小さな一マスとして看過されてもゆくのだろう。
 無論そうでなくとも専門性に対する一個の意見が民衆の全体を代表するという事
 など滅多になく、実際に代表する際にもまた技術や修練が要るだろうから、まず
 ブロガーの意見をそのまま民衆の意志として承服する事など出来ないのだろうが
 それでもマスへの拡大の動きはあり続けるだろう。その評価は実際どうだろうと。
 

 無論それを拒否せねば自分自身の単独性を保ち続ける表現は出来ないだろうから
 それは選択である。そこでは多数派に加わる事は死ぬ事を新たに意味するだろう。
 

 
 いずれにせよ事には終わりがなければならない。その者の立場がどうであろうと
 それが民衆の意志であれば事々に意志が代表される必要があるだろうし、単独性
 から語ったのなら自身が発言する動機と結果についての正直さが要るはずだろう。
 さて。

Not YOUR God

 

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「運命を恨んではいません。贈り物です。だからそれに報いなくては。」

マトリックス・レボリューションズ

 さて。
 時が過ぎてきたという事ならもはや繰り返すまでもない事となってきただろう。
 ここで記述すべきなのはその中の動きだ。例えばそれは時効を目指す動きだ。

で、カーストについてちょっと話をした。これがまた要領を得ないので記憶も
たいした像を結ばないのだが、ようするにカーストごとに生活様式があり、
それはそれでいいのだ、みたいなものだ。うまく言えないのだが、倫理的に
劣る人々がいてもそれはそのように宇宙がそうなっているのだみたいだった。

倫理的に劣っていそうな一群の人々について - finalventの日記

 さて。
 ここにあるおぞましさを理解出来るだろうか。このおぞましさは、端的に言えば
 神様ごっこのおぞましさだ。宇宙にとって低劣な倫理は何程でもないだろうが
 その事と自分自身にとってどうかと言う事を混同するのはいかにも低劣だろう。
 宇宙にでもなったというのならそれだけの恩恵をも同様に与えるべきだろうに。
 それをせずに宇宙気取りの見て見ぬフリだけするのであれば果たしてそれが
 誰の利益に繋がる事か見て取るくらいはすべきだろう。せめて倫理を問うので
 あれば。殊にここでは低劣な倫理と共犯的になりゆく事が果たして自覚的な
 事かどうかだ。結論から言えばそれほど自覚的な判断だとは思えないのだが。


 何故それほど自覚的な判断だと思えないかといえば、節々に見られる用語法
 から自覚の痕跡を見出せないからである。その用語法とはまず次の用語法だ。

こうした問題を倫理なりモラルを問う形で議論するのは間違っている。

モラルの低い人を傍観する時: 極東ブログ

 ここで着目すべき表現は「モラルを問う」という用語法である。この用語法には
 緊張感が見られない。ここで意味されている事柄は果たしてモラル「を」問うて
 いるのだろうか。その内実を、その構成を、あるいは他の何かをきちんと問うて
 いるのだろうか。それとも単に倫理的な非難をするだけだろうか。後者であろう。
 つまり、ここで行われているのはどちらかといえばモラル「に」問うているだけの
 事だろう。単に「それでいいのか」とそいつのモラル「に」言っているだけだろう。
 ここには個々のモラルが何故必要になるのかという顧慮がそもそも見られない。
 あるのは単に非難の口実としてしか機能しなくなった惨めで哀れな残骸である。


 次に

その他、社会で見かけるモラルの低い人を、なんというか、
許すようになった。というか、傍観するようになった。それでも
雨の日、傘をぶんまわす人は危険性ということで許せない。

同上

 ここで決定的なのだが、モラルとその必要性が切断されるように、低劣さとその
 効果との関連も切断されてゆくようになっている。それは次の事に明らかだろう。